あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

ひとつになる

永遠のようにも数分のようにも思える曖昧さで、過ぎていった時間の感覚が身体の芯に残っている。辺りを覆う薄明かりは夜明け前なのだろうか。 『ここは・・』何処だろう。 ぼんやりした頭で周囲を見回しても、手掛かりになりそうなものは何も見当たらない。…

夢とうつつと

「ごめんね」メイの消え入りそうな声がした。「いいんだよ、もう」僕の声も濁りがちだ。僕を見つめるメイの目は苦し気だ。もう十分だよメイ、もう自分を責めないで。「分かった、もういい、もういいんだよ」何か言おうとしている君の口を僕は自分の唇で塞い…

打診

瞳を輝かせた悪戯っ子は《行ってみたらどうなの》と優しい声で僕を唆し始める。《固い決心を示すチャンスじゃない》囁きは甘美なまでに心地よく響く。《そこまでのことをされたら誰だって心は動かされるし、きっと受け容れてしまうわ》誘惑は抗い難い魔力を…

年末ジャンボ

受話器を取って、はい、と応えた耳にそれは唐突に飛び込んできた。「わたし・・」肺は動きを止め、大きく瞠った目で宙を見たまま彫刻になる。永遠とも思える数瞬の間、全身の細胞は仮死状態になり、忘れるはずのない懐かしい声を貪るように鼓膜だけが生きよ…

ロシアンルーレット

わずかな時間だけ陽射しの落ちる細い通りを歩いていると、そこだけ抜けたように明るい陽だまりを見つけたりする。丸くなった猫が似合いそうな陽だまりは、トロトロと寛ぐには最高の場所になりそうだ。 季節を滲ませる情景に出会うのは、ずいぶん久し振りな気…

ダメージ

何かがおかしいと気付いてはいる。助けを求めて叫んでみても、干からびた喉から微かな空気が漏れるだけで声にならない。虚しく動き続ける口はまるで打ち上げられた魚だ。理不尽な状況と説明のつかない異様さは、とても現実とは思えない。これはきっと夢だ、…

ラストコール

定期便となった電話がこの日も同じように始まり、同じような終わりへ向かっていた。いつもと同じ景色がそこにあり、君の口調にも特段の変化は見られない。 「私、一緒になれないよ」 気負った様子も思いつめた響きもなく、日常会話然とした話しぶりに僕は何…

楽しかった

「室蘭に行ったらいいさ」 温泉でも行ってくれば、というお母さんの誘いにお父さんが提案したのが室蘭だった。 「そこは混浴だし、二人で入れるぞ」 お父さんの冗談ぽい話に、え?、と思う。 「混浴ですか?」 僕の反応を見たお母さんが修正した。 「昔の話…

君と僕の間に座卓が割り込んでいる。僕は座卓に両肘をつき顎を手のひらに乗せた姿勢になって、向こう側でお茶を淹れているの君を眺めている。平凡な日常のゆっくりと流れて行くこの時が、二度と戻らない瞬間だからこそ堪らなく愛しい。 差し出された湯呑を、…

素顔のままで

君は鏡の前で肌の手入れをしている。一日の終わりの日課を、僕は斜め後ろから眺めている。鏡の中の自分と真剣に対峙している君の仕草は、僕の心に安らかな時を与えて飽きることがない。「折角お風呂に入ったのに、何かつけるの?」「ううん、手入れだけよ」 …

彼女がいる顔

僕たちを追い抜いて行った車はもう見えない。道路の両側はどこまでも続く原生林で漆黒の闇に沈んでいる。見えるのはヘッドライトに切り取られた道路、聞こえるのは単調なエンジン音とボディを叩く激しい雨音、感じるのは僕を意識している君の気配だけになっ…

支笏湖畔

メイの声はミュートされていてほぼ聞こえない。瞳の奥には青白い灯りが揺れている。僕は、これくらい、と言いながら唇を合わせていた。メイのくちびるは柔らかく、絡まる舌は暖かい。エンジンの刻む単調でくぐもった音が遠くから聞こえている。サイドブレー…

家族

君のご両親に続いて入口でスリッパに履き替える。不意に "ほかの人から見たら僕たちは4人家族に見える" って気付いた。とたんに不思議な心地になり気分は舞い上がりそうになる。市のみんなが僕たちを温かく迎えてくれているような嬉しさを覚える。君が一緒…

あずましい

メイのお母さんへの挨拶を終えてようやく重い荷物が下ろせた。一仕事終えた感覚で不思議と心地よい疲労感に浸っている。ふたりで畳の上に足を投げ出して寛いでいると、ずっと前からこうして暮らしていたような錯覚に陥りそうになる。メイが高校卒業まで使っ…

千歳空港

「今日はね、身支度をさぼっちゃったんだ」 「ん??」意味が解らず、僕の頭の上には疑問符がいっぱい並んでしまう。僕の戸惑いを見届けてから、さらに顔を近づけて耳打ちするようにそっと囁く。 「ブラもしてこなかったし・・・」 「?!!」僕たちの周りに…

釧路フェリーターミナル

人の気配を感じて振り向くと見知らぬ人が近寄ってきて「奥様ですか」と尋ねた。夫婦に見えていたのだろうか。警戒よりも幸福感が勝って正直に、これからです、と応えていた。「綺麗な方ですね」と言われて途端にこそばゆくなり、表情が崩れてしまうのを止め…

くちびる

君は前方の白い雲を見上げながら思案している。「君のは、罪なくちびるだよね」君は怪訝な顔をしてこちらを見る。僕は左手を伸ばしてぷっくりと形のいい下唇を人差し指でプルンと弾いて「こいつがね」と言った。「僕の心を鷲掴みにして、虜にしてしまうから…

塩ダシおでん

君は目をキラキラさせて「おでん」のダシは塩味と醤油味のどっちが好きかと尋ねる。そして自慢気に「おでんのダシは絶対に塩よ」と断言する。醤油ダシを捨てきれない僕が不服を口にすると「北海道のおでんは塩ダシなのよ」と言った。ビックリだった。

じゃがバター

僕が3杯目のお代わりを頼むころ君の頬は微かなピンクに染まり目は心持ちトロンとしている。後回しにしてある話が頭の隅に引っ掛かっている。「車の中での話だけど・・」「ああ、"わかって下さい" の話ね」「メイがメイである限り、僕の『メイが大好き』はず…

わかって下さい

ゆっくりと黄昏の色を濃くして行く帯広の街を、メイが淹れてくれたコーヒーを愉しみながら眺めている。もう少しで大きく膨らんだ太陽のシャワーでこの部屋がローズピンクに染まる。贅沢な時間だった。同じ向きに並んで座り同じカップを持って同じ街並みを見…

富良野プリンスホテル

君は上半身を全部こちらに向けた姿勢に座り直した。「無理をしないでくれるほうが嬉しいし、キチンと相談して欲しい・・」暗くてよく判らないけど、君が真剣な顔をしてることが伝わってくる。胸の辺りがジワッとして、グウの音も出ない。「あと少しで着くか…

北見へ

小さなバッグを抱えた君が駅に入ってくるのが見えた。急ぎ足で来たらしく少し息が上がっている。ホッとした様子の君の額にはほんのり汗が滲んでいる。その姿はとてもいじらく僕はじっとしていられない。抱きしめてしまおうと思った。

留辺蘂

「相談したいことがあるんだけど・・」神妙な声になって君は言った。その口調が簡単な相談ではないと告げているから、受話器を持つ手が少し緊張気味になる。「ここから近いところに留辺蘂って町があるのね」聞いたことのない町名だった。「遠軽と北見の間に…

女子寮

少しの間があってから受話器から声が聞こえた。「もしもし・・・」何か言うしかなかった。「初めまして」と妥当な線を言ってみる。「あ、初めまして」その子も乗ってくれたようだ、仕方なしだろうけど。"彼です" と紹介されたようで、恥ずかしいような少し面…

虫の報せ

心配事の9割は起こらないと云われている。思い出に思い出以上の意味を持たせようとする心理は、慎重に排除しなければならないだろう。それが正論だと頭の隅のほうで警告灯が明滅している。北海道を度々襲っている大きな災害が、抱えてしまったわだかまりを増…

京王プラザ2007

そのときメイがもぞもぞと動いた。 《起きてる!》 考えるより先に身体が勝手に動いた。弾かれたように君に覆い被さり、そのまま思いっ切り抱き締めていた。メイは驚いたようにピクンと跳ね、小さく "んん・" とうめいて目を開ける。遠く離れてしまうメイの…

ナチュラル

ナチュラルがいいとメイは言う。誰にも相談できず心細さに耐えているメイを想像すると、僕はとても尋常ではいられなくなる。 メイはきっと、その辺りの事情を十分承知していて覚悟も決めているのだろう。言葉はその証左なのだ。そんな時、僕にはメイがずっと…

中央フリーウェイ

到着便の案内表示板が、刻々と変わる運行状況に合わせてパタパタと音を立てている。僕は到着ゲートの前で逸る胸を抑えつけながら待っている「もしかしてユーミン?」と訊く君に僕は左側を指差した。あっという間に通り過ぎる。「ビール工場って、SUNTORY?」…

目から火

電話が鳴り君からだと直感した。僕は勢いよく飛び起き跳ねるように電話のある玄関へ向かう。いきなり脳天に衝撃が走った。真っ暗になり目の中で何かがチカチカッと瞬いた。気付くと廊下に仰向けで倒れている。頭頂部に痛みが走る。鴨居に頭を打ち付けたよう…

レンタカー

「今度は私が東京に行くよ」君のそんな話に、僕は驚きと嬉しが入り混じった複雑な声を出してしまった。「行ってもいいでしょ?」もちろん反対する理由などあるわけない。僕の心は嬉しさを抑えきれずピョンピョン跳ねている。歩けばすべてがスキップになるよ…