あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

打診

事務室のドアを勢いよく開けて、慌てた様子の課長がこちらへ向かって来る。小刻みに揺れるユーモラスな体形(小柄で小太りなのだ)とは裏腹に、真剣な表情が問題を抱えていることを窺わせる。

 

僕の姿を認めた課長は右手をヒョイと挙げると、厳しい表情のままこちらへ真っ直ぐ向かってきた。トラブルに巻き込まれた覚えはないし下手を打った記憶もない。課長を悩ませている事態に心当たりなどなかった。
「どうかしたんですか?」
訝しげな顔で尋ねた僕に向かって、課長は弾んだ息のまま話し出した。

「あのさ、なんとかってところへの転勤ってあったろ?」

「転勤、ですか?」まったく意味が呑み込めない。落ち着くようにゆっくりと訊き返す。「なんとかって、何処のことですか?」

「るべ・・、 その、なんとかってところだ、北海道の」

転勤と北海道のキーワードから導かれるのは ‘あれ’ しかない。ざわりとした感触が脊髄を走り抜け脳幹が緊急事態に備え始める。それにしても質問の真意が分からない。

「ああ、留辺蘂(るべしべ)ですね。留辺蘂がどうかしました?」

「その留辺蘂ってところへの転勤ってさ、どうしたか覚えてるか?」

いやな予感がした。転勤願いなら出したことに間違いはない。けれど取り下げたはずだ。

「あの転勤願いは取り下げましたよ、しばらく前に」

「やっぱり」課長は我が意を得たような顔で、そうだよなあ、と呟いた。

何が、そうだよな、なのか分からず、悪い方向へ転がりそうな予感を懸命に抑える。

「何かあったんですか?」

「いまさっきな、人事から問い合わせがあったんだよ。留辺蘂への転勤を進めるけど問題ないですねって」少し間を開けて、驚いたよ、と言い足した。
"え" の形で半開きになった口がそのまま固まってしまう。多分、声は出ていない。拳で横っ面を張られて脳震盪を起こしたようにクラリとする。驚きを通り越して冗談にしか思えない。
『確認して折り返し連絡しますって電話を切ったけど・・』課長の話は続いているらしいがもう耳に入らない。

打診があったってことは、転勤願いは活きていて異動に向けて動いていたということだ。脳みそには留辺蘂の景色が溢れ出し、話すべき言葉を見つけられない。知る人のいない道東の田舎町で、雪と孤独に埋もれてゆく姿が実像を伴って目の前に迫り、環境の激変に思わず身震いしそうになる。

固まっている僕の様子に、課長は何かを思案していると勘違いしたらしい。

「どうする?」と言いながら僕の様子を窺っている。

見つめ返す僕の目は課長の身体を突き抜けて違う景色を見ている。あの日から僕の中に棲みついてしまった悪戯好きな亡霊が、北海道と耳にした辺りからもそもそと動き始めていた。永い格闘の末にようやく寝付いてくれたのに、どうする、に触発されてすっかり目を覚ましてしまったようだ。

瞳を輝かせた亡霊は《行ってみたらどうなの》と優しい声で僕を唆し始める。
《固い決心を示すチャンスじゃない》甘美な囁きは心地よく響く。
《そこまでのことをされたら誰だって心は動かされるし、きっと受け容れてしまうわ》誘惑は抗い難い魔力を秘めて決断を迫った。
《ねえ、どうする?》

どうするって、とつぶやいて下を向いた時、両手を強く握っていたことに気付く。爪が食い込んで痛い。そっと息を吐いて少しづつ力を抜いた。

これはすでに取り下げた話なのだ。メイの気持ちは間違っても変わらないと判断したから取り下げることにしたはずだ。ここで誘惑に屈すれば、これまでの苦しみは意味を失う。明るい展望が開けるなら、それでも構わないけれど。

だけど、無理だろう・・・

「転勤は」喉に絡まった言葉を力ずくで吐き出した。「断って下さい」

下水からすくい取った泥水を飲んでるようで気分は最悪だ。

けれど、ここで止めるわけにはいかないだろう。もう一度毒を喰らう覚悟で念押しするように課長の目を見つめ、それに、と続けた。

「この話は取り下げますって、お話ししましたよね。1年くらい前に」

「ああ、分かってる。俺も上には伝えたんだけどな。手違いでもあったのかもな」

「いやいやいや」僕は両の掌を胸の前で広げて左右に振り、あってはならない事だと暗に指摘する。「手違いで済む話ではありません。転勤はしませんよ」

「分かってるよ」

「お願いしますね、はっきり断ってくださいね」

「大丈夫だ。きちっと断るからよ」

来た時と同じように片手を挙げた課長は、しかし驚いたな、 と呟きながら事務室へ戻って行った。

 

状況によっては留辺蘂へ行っていたかもしれない。もう少し早かったら僕はこの話を受けていただろう。あるいは打診などないまま、留辺蘂への転勤が発令されていた可能性だってあったのだ。

呆然として課長の姿が見えなくなっても突っ立ったままだった。目の焦点がどこにも合わない、何も見ていない、何も考えられない。そのままどさりと椅子に腰を落として目を閉じ、意識して深呼吸を繰り返す。心臓が駆け足のままだ。

それなのに現実感が希薄で実際のことだと認識できない。脳も軀も中途半端に浮遊している感覚が拭えない。返す言葉はあれで良かったのだろうか。返答を誤ったのではないか。答えのない問いがいつまでも空回りする。

これは現実か? 信じたくない。

  

◇◆◇◆◇

 

ずっと躊躇っていた。

記憶の中の君の姿は更新されなくなり、その声はおぼろに霞んでしまいそうだ。音信が途絶え、噂も届かず、消息さえつかめない状態が時間の経過とともに心の裡に積み重なり、いつしかそれは認めたくないまま日常の風景となってゆく。君のいない日々があたりまえになり色濃く定着し始めるまで、僕は転勤願いを取り下げることができなかった。

 

固いと思っていた絆が呆気なく壊れてしまった後も、一縷の望みは胸の内に燻ぶったままだった。

何事もなかったかのように「逢いたい」と言ってくることを、連絡を再開させる緊急事態が起こることを、メイに会う必然性が生まれることを、電話できる口実を、ずっとずっと待っていた。それがどれほど滑稽で愚かなことか分かっていても。

「ごめんなさい」なんて要らないから、メイと僕との日常が始まればそれだけで充分なのだ。

 

君への断ち切れない思いがようやく沈静化し始めたこの時期になって、なぜ亡霊を復活させるような動きが起きるのだろう。この巡り合わせがやり切れない。

記憶の中枢にはっきりと残る君の刻印の上に、追い打ちをかけるような焼印が押された気がしている。目を醒ました亡霊がはしゃぎ回るのが見えるようだ。しばらくは君の亡霊に悩まされる日々が続きそうだ。恐らく慣れることはできないだろう。

 

この話をメイが知ったらどんな反応をするだろう。いつか何処かでメイと会うことがあったなら訊いてみたい。