あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

北見へ

東日本の太平洋岸を舐めるように航行していたフェリーは、ようやく苫小牧港に接岸した。乗車を促すアナウンスが船内に流れる。

「ふぁあ、やっと着いた。長かったあ」

3等船室に缶詰めになって30時間以上が経っていた。両腕を思いっ切り伸ばして大きな欠伸をしてから身支度に取り掛かる。誰もが同じような行動を起こし、船内が急に騒がしくなった。

 

運転席に座って驚く。

汐風をたっぷり浴びた車体はうっすらと塩コーティングされたようで、目の前のトラックが滲んで見える。

「おお、危ねえ」

急いでウィンドウォッシャーをタップリ流し、タオルを使って運転可能なレベルの視界を確保する。周りのトラックの様子を窺うとフロントガラスは奇麗に拭き取られ、誰もが涼しい顔で運転席に座っていて経験の違いを認識させられる。

下船が始まり誘導員の指示でトラックの後に続き、直ぐに後悔する。落とし切れなかった塩コーティングのせいで視界が悪く、暗い格納庫内は考えた以上に走りにくい。障害物がないことを祈りながら、車両固定用の鎖が転がる鉄板敷きの甲板を、ガチャガチャいわせながら車を走らせた。

せめてフロントガラスだけでも洗い流したい。そんな思いでフェリーを降りたところで周囲を見回したものの、見事なほど殺風景なコンクリートの広大な敷地には、セーフティコーンを並べた通路がターミナル出口へ向かって続いているだけだった。

トロトロとした走りになった僕の後ろはトラックがひしめいている。通路から逸れることもできず、隊列を組んだトラックの無言の圧力でターミナルの外へ押し出されてしまった。

 

ガソリンスタンドで洗おう。

そう決めて「洗車、洗車」と念仏のように唱えながら早朝の苫小牧の街へ走り出た。道路は閑散としていて走りやすく、視界がクリアになればもっと快適だろう。

早めに洗車を済ませよう、是が非でも今日は予定通りにメイに会いたい、トラブルなど御免だ。何より安全運転のためにと願ってはみても開いているスタンドが見当たらない。なにしろ街そのものがまだ眠っているのだ。街が起きるまでの間、距離を稼ぐことに専念しようと気持ちを切り替え、千歳方面へ心のハンドルを切った。

 

北見まで300キロ強ってところか。時間はたっぷりあるから焦る必要はない。メイは早退するって言ってたけど、北見駅に着くのは多分僕の方が早いだろう。走行ルートはあらかじめ決めてあった。船内で北海道の道路地図帳を眺め、ルート上の通過地点が岩見沢、滝川、旭川であることも確認済だ。国道を走るので迷うことはないと思うが、案内板の地名を確認すればより確実だ。地図帳は2年前に北見の書店で買ったものだった。

途中にいくらでもあると軽く考えていた洗車機を備えたスタンドは、どれだけ走っても現れてくれない。捜し物は必要としている時には見つからないものらしい。

買い物に立ち寄った店でバケツに水を貰いフロントガラスを拭いてみたものの、油膜のような拭き残しがペイズリー柄に広がってスッキリしない。結局、洗車できたのは昼を過ぎていた。

 

◇◆◇

 

留辺蘂転勤の話は、メイの要望通りに進めることに決めた。冬の寒さを知らぬ身としては不安要素は山ほどあるけれど、一人で住む訳ではなし、教えを請いながらやるしかないだろうと考えている。

懸案だった転勤希望調書も管理部門と相談した結果、仲人を保証人とした証明書を添付することで了承を得ることができた。

それでも希望通りになる保証はどこにもないし、転勤できたとしても別の地域になる可能性の方が大きい。僕は調書を提出した側から、見通しの立たない宙ぶらりんな状況に立っていることに気付き、漠然とした不安に陥りそうになる。メイが話していた住む場所への迷いも、これと似たような心境だったのだろうか。ここは僕が踏ん張るしかないだろう。多くの人の協力や尽力があってようやくここまで漕ぎ着けたのだから、現在(いま)は一歩前進できたことを喜ぶことにしよう。

メイにもこのことは伝えてある。メイも何となく同じような心境を抱いたように感じた。

 

◇◆◇

 

北見駅前に到着したのはまだ明るいうちだった。駅前広場の中央を駐車場が占めていて、その周りを車道と歩道が取り巻いている。これなら例え混雑しても、出られないなんてことにはならないだろう。それでも車を出し易そうな位置を選んで車を停め、駅の待合室で君の到着を待つことにした。待ち合わせ時刻までもう少しだ。

この駅でメイと待ち合わせる、焦がれていた瞬間がもうすぐ現実になる。濃密な時間がゆっくりと流れるのを感じながら駅舎を眺めた。たくさんの手でピカピカに磨かれた手すりも、色の褪せてしまったポスターも、擦り減って半分朽ちている長椅子の脚もみんな生命の輝きに満ちて、不思議な高揚感を運んでくる。

もうすぐだ・・。

 

小さなバッグを抱えたメイが駅に入ってくるのが見えた。

メイがそこに居る。

誘われるように無意識に立ち上がって待合室を出ていた。小さく片手を挙げ何か言おうとしたけれど声にならない。

君は微笑みを返しながら

「待った?」と訊いた。

急ぎ足で来たらしく息が弾んでいる。僕はバッグを受け取りながら

「大丈夫、ちょっと前に着いたところ・・」と答える。

「よかった。出るのが少し遅れちゃったから」

ホッとした様子の君の額にはほんのり汗が滲んでいる。その姿がとてもいじらく、愛おしさで堪らなくなった僕はじっとしていられない。

この気持ちをいま直ぐ分かち合いたい、抱き締めてしまおうと思った。

メイに手を伸ばしかけた時、静かだった改札口が急に騒がしくなる。到着した列車を降りた大勢の通勤通学客が、立ち止まっている僕たちを通路の真ん中に突然現れた障害物のように一瞥してからすり抜けて行く。

『邪魔しないでくれ~』と叫んだ。もちろん心の中で。

しかし冷静に考えてみれば邪魔しているのは僕たちの方かもしれない。メイを抱きしめるのは後の楽しみにしようと気持ちを切り替えた。

「車を回してくるね、ここで待ってて」

この駐車場は間違った方向から出てしまうと、大通り経由を余儀なくされる。ロータリーへ通じる出口を確認してから、最短で駅舎前へ向かうよう慎重に車を進めた。

駅舎の出入り口に近づいたところで思わずブレーキに足がかかる。メイが待っている辺りに大勢の人が動いているのが見えたからだ。また別の列車が到着したのだろう、たちまち駅前に溢れ出した人波に呑まれて身動きが取れなくなってしまった。今日は何という日だ、こんなにも北見の人たちに歓迎されてる、わけでもなさそうだった。

車を避けて通って行く人々は、皆一様に迷惑そうな視線を投げてくる。そんなに非難しなくても、と恐縮しながら過ぎてくれるのを待った。

ようやくメイを乗せて北見駅を出発した頃には、陽はかなり傾いていた。

 

◇◆◇

 

「さっきね」

少し走ったところでメイの明るい声がした。僕は何かしらを期待してしまう。

「え? なに?」

「駅の前まで車を持ってきたでしょ」

「うん・・」

「あそこはね、歩道だったのよ」

予想もしない話と指摘に裏返ったような声が出る。

「ええ? 歩道? そうなの?」

「だって玄関までピッタリに着けるから。車道はもうちょっと外側よ」

「ああ、どうりで」皆んなが迷惑そうな顔をしていた訳だ。「でも、どこで間違ったんだろう・・」

「うん、間違ったことはもういいの。この先は安全運転、お願いね」

「それはもう、心して」なにしろ大切な人を乗せてるんですから。

それにしても北見の皆さん、ご迷惑をおかけしました。

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。