あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

年末ジャンボ

目覚ましがチリッと鳴ったところでストップボタンを押していた。布団の中から伸ばした腕はパジャマの袖がめくれていて次第に冷えてくる。頭まで被った布団の先の隙間から、いつもなら漏れてくる朝の明るさがない。

「まだ夜中だよな・・」今更ながら再認識させられる。

ブツブツと呟きながら覚悟を決めて布団から這い出る。想像以上に寒くブルっと震える。

「サブッ」

布団に戻りたくなるのを堪えて慌てて着替える。こんな早起き、遊びに行くにしてもあり得ないだろうって恨みがましく思いながら。師走ともなればさすがに真っ暗な時間帯だ。自慢じゃないが早起きは苦手だった。気を張っているせいで寝不足には感じないのがせめてもの救いだ。温まっている余裕はない。洗顔を済ませると冷たい水だけ飲んで駅へ急いだ。

 

始発に近い西武新宿行の各駅停車は乗客の数もまばらで皆一様に眠そうだ。この時間帯では快速や急行の類はまだ走っていない。別の路線が合流するあたりで急行にでも乗り換えられればラッキーだなと漠然と思い、乗り換えのアナウンスがないってことは望み薄なんだなとも思う。とりとめのない考えは考えていないのと同じだ。尻の下から這い上がってくる温かさが緊張を解し、心地よいうたた寝の世界へ誘惑する。外は暗い。次第に重くなる頭を支えられなくなり、焦点を結ばなくなった目は瞼を開いているのか閉じているのか判らなくなる。早起きのきっかけとなったいきさつが眼裏に浮かび、夢と現実が混ざり合って曖昧に溶けていった。

 

◇◆◇◆◇

 

受話器を取って、はい、と応えた耳にそれは唐突に飛び込んできた。

「わたし・・」

「!!・・」

肺は動きを止め、大きく瞠った目で宙を見たまま彫刻になる。永遠とも思える数瞬の間、全身の細胞は仮死状態になり、忘れるはずのない懐かしい声を貪るように、受話器を当てた耳だけが生きようとしていた。

息を呑む、とはこういうことかと思う。

呪縛が解けると共に、この数か月の苦しみや悪夢がまるで嘘だったかのように薄らいで行く。心の隅々まで晴れ渡り、空気までが清涼な風のように感じられる。

僕はまだ君を愛している。忘れようとしていた感覚は一瞬で全身を駆け巡り、疑いようもなく僕の内側は君の色に染め上げられる。

「メイ・・」ようやくそれだけ言えた。

「うん・・」君も言葉少なだ。

無言の会話が過ぎた時間を語り掛ける。余計なものを削ぎ落した互いの気配が、より濃密になる。言葉もなく抱き寄せた時の、確かな手応えと温もりが甦って胸が窮屈になる。

「どしたの?」

「・・・驚かせてごめんね。元気にしてた?」

メイの声に射貫かれた心臓はバクバクと喘いでいる。大きく膨らんでしまう期待を抑えることが苦痛でしかない。

「ああ、なんとか・・」

嘘だった。嘘だってことくらい判るよね。

「そう、良かった」

それでも君の声は少しホッとしたようにも聞こえる。

「メイは?」

「元気よ、私も」

 

声だけなら元気そうに聞こえる。素顔を見せてよ、本心を聞かせてよ。ホントはどうなのだろう。メイの気持ちは乱れることがないのだろうか。僕の苦しさを少しは察しているのだろうか。この数か月、なにをしていたのだろう。痛みさえ感じさせない声は何を意味する。僕とのことは割り切れているのだろうか。矢継ぎ早に浮かぶあれやこれやが一度に口から出ようとする。

 

「そっか。そっちは、もう寒いんだろ?」無難な言葉が口から転がり出る。肝心なことなど訊ける訳がない。

「うん、何回か雪も降ったし」

「雪かあ。北見の雪景色は見ないままだな・・」

「寒いわよお。寒がりさんにはキツイかもね」

 

ふいに目の周りがジワッとする。2年以上前のことを思い出して言ってるのだろうか。あの炉端焼きに行った日のことを・・慌ててそんな考えを振り払う。いくらなんでもそんな都合のいいようには・・・。

 

「そうだな、遊びに行ってるのと訳が違うからな」動揺を気付かれないようにして、素っ気ない振りで訊いていた。

「それで、何の用?」

「あのね、今日は頼み事があって電話したの」

 

頼み事? 君が電話している相手は君が別れを告げた男だぞ。縁を切った男に今更どんな頼み事があるというのだ。そりゃあメイの声を聴けるのはそれだけで純粋に嬉しいよ。けれど僕がどんな心境になるか分かっていて電話してるのか。その辺りをハッキリさせてくれないか。そうでないと僕はどんな態度で接したらいいのか判らないよ・・・。
そんな風に思う一方で、メイの期待に応えたいという強い欲求が抑え切れないほど大きく膨らみ、最早抗うことなんてできそうにない。

 

「頼み事? なんだろう」

「今度の宝くじって、買いに行く?」

想像もしない話だった。

「宝くじって、あの年末ジャンボって騒がれてるやつ?」

「そう、その年末ジャンボ」

「買ってみようとは思ってるけど、すぐに売り切れるって話だよね」

「そうなのよ。前の時は皆んな買えなかったって言ってたもの」

 

メイ、君は強いんだな。すっかり知り合った頃のメイに戻っているようだよ。例えそれが上辺だけのものだったとしてもね。こうして話していると、別れを告げられたことなど忘れてしまいそうだよ。ねぇメイ、僕たち・・・

 

「売り出しの日に並ばないとダメだろうね」

「東京でもそうなの?」

「同じだと思うよ。だからどうしようか迷ってる」

「こっちは売り場の数も発売数も少ないから、まるで手に入らないそうよ」

 

ねぇメイ、僕たちはやり直せるのかな。また、これまで通りに戻れるのかな。

 

「そんなに少ないのか、数っていう点では東京の方が有利かもね」

「もし、買いに行くことになったらさあ・・」

「うん?」

「ついでに私の分も買うことって出来る?」

 

恨み言や苦しい胸の内を明かしたら、あるいはもっとはっきり復縁を迫ったとしたら、君は何と答えるつもりだろう。そうした事態は充分過ぎるほどの可能性があるんだよ。

 

「メイの分も?」

「出来れば・・。こっちで手に入れるのは無理って言われてるの」

「まあ、いいけど・・」

「ありがとう。ついででいいからね。自分のを買うことになったらで」

「分かってるよ、大丈夫さ」

「無理しないでね、自分の都合でいいんだから・・」

「無理はしないさ。売り場はいくつもあるんだし」

「ありがと。ホントについででいいからね」

 

ああメイ、僕は勘違いてしまいそうだよ。この電話はその誘いなのかい。
さっきから胸のずっと奥の方で声がしている。その声が《待っていたチャンスじゃないか、躊躇うな》って僕をけしかけるんだ。
《もう一度、やり直そう》って言葉が喉の辺りまで競り上がってきていて、いまにもこぼれ出そうなんだよ。
でもねメイ、僕はそれほど強くない。僕たちこれまで2度、同じような別れ方をしているよね。また同じような別れがあるなら、僕は自分を保てる自信がない。もう一度君に去られたら、きっと僕はもう立ち直れないよ。
だからお願いだ。勘違いしても構わないってことなら、ハッキリそう言ってくれないか。

 

「それで、何枚くらい要るの?」

「10枚で充分よ」

「連番とか、バラとかあるじゃない」

「だったら連番かな」

「連番で10枚ね、そしたら僕はバラにしとくか」

「あら、同じでもいいんじゃない」

 

ねぇメイ、僕たちこうして、友達のような気安さで話してるけど、君の心は騒いだり波立ったりしないのか。この電話を切った後、何事もなかった顔で電話する前の続きに戻っていけるの。

 

「分けるときにどっちを送ろうか迷うのもなあ、と思ってさ」

「そういう時って迷う方なの?」

「うん、迷うね。結果に差が出るような場合は特にね」

「ふうん、私はサッサと分けちゃうけどな」

「そりゃメイらしいや」

「あらぁ、だって結果がどうなるか、まだ分からないじゃない」

「そうだけど。結果に差が出た時に、人間の心って微妙に変わってしまうからな。それが煩わしいんだよ」

「ふうん、考え過ぎって気もするけどな」

 

ねぇメイ、こんなところで天然を発揮しないでよ。君は僕を振ったんだよ。その僕に何をさせたいの・・。
あの頃と同じように屈託なく話をして、勘違いするなって言う方が無理でしょ。

 

「そうかも知れないけど、僕は気になるなあ」

「ねぇ、買うとしたら何処で買おうと思ってるの?」

そうだなあ、と言いながら宝くじ売り場のある場所を思い出していた。常設の売り場はきっと大勢が狙ってるだろうし地元ではちょっと心許ない。組み立て小屋形式の売り場で販売数の多そうなところが妥当だろう。

「新宿辺りが狙い目かな」

「え? わざわざ新宿まで行くの? いいよ、無理しないで」

「この辺りじゃ北見と同じだよ、多分手に入らないよ」

「だって・・、なんだかさあ・・」

 

君は天然って言うより無邪気なんだね。少女の無邪気さを保ったままの君に周囲は翻弄されるけど、誰も君を放っておけない。君の放つ奔放の明かりに吸い寄せられて、魂を差し出してしまうんだ。明かりがあれば影が生じる。明かりが強ければ影も濃くなる。それでも君は持ち前の無邪気さゆえ、誰からも恨みを買うことがないんだ。
君を放っておけない人の筆頭は多分、僕なんだろうって気がしている。

通話が始まったあたりからずっと鳴りやまないものがある。胸奥のずっと底の方から咆哮と呼べるような声が絶えず湧き上がってきていた。
―― 他愛ないおしゃべりは即刻中止にするんだ。これはメイの方から仕掛けてきた千載一遇のチャンスじゃないか。お前の気持ちをキチンと伝え、メイの気持ちをハッキリと確認しろ。いいか、最後のチャンスだ、ハッキリと確認するんだ! ――
心の奥底から湧き上がる声を、恐らくは本音だろうその声を、僕は黙殺し続けている。目の前のチャンスを掴もうともしない自分が、罵りたいほどに腹立たしい。
解っている。それでも、できない。怖いんだよ、3度目が。だから・・・

 

◇◆◇◆◇

 

高田馬場なのかって?

「いや、新宿だよ。行こうと思ってるのは新宿。駅は西武新宿が近いけど」っていうより、なんで高田馬場を知ってるの? そんな疑問を抱いたところでそれが車内放送だと気付いた。まもなく到着する高田馬場での乗換案内を繰り返している。あと一駅で西武新宿に到着する。すっかり寝込んでしまい、結局1時間以上も各駅停車に揺られたことになる。

 

西武新宿の改札から熟睡している新宿の街に出る。夜明け間近の色を失くした薄明るい街並みは化粧っ気がなく素直で無防備な顔をしている。消し忘れて赤く灯る看板が白々しく寂し気だ。

ここから数分も歩けばミラノ座やスカラ座、ピカデリーといった複数の映画館に囲まれた小公園に出る。そこには組み立て式の宝くじ売り場があったはずだ。映画館を訪れたときに見かけた記憶がある。

 

駅前の信号を渡り始めたところで不思議な感覚に囚われる。道行く人が皆、同じ方向に向かっているような感じがするのだ。まさかと思いながらも無意識に足の運びが速くなるのを抑えられない。

小公園が近付くに連れ、妙な違和感は確信へ変わる。早朝に似つかわしくないざわめきがビルの谷間を通って次第にはっきりと聞こえてきていた。

長蛇の列が目に飛び込んできた。制服を着た警備員が、集まってくる人たちに列に並ぶよう指示している。宝くじ売り場があるはずの場所に目をやると、赤いテント生地に覆われた塊があるだけで、開店準備も始まっていなかった。

可能なら他の売り場も巡ろうって考えは吹き飛んでしまった。何としてもここで手に入れよう。行列の最後尾を求めて公園を見まわした。

 

宝くじ売り場の開店準備が整った頃にはすっかり夜が明け、並んでいる人の列も公園の外まで伸びているようだった。それでもまだ集まり続けている様子が警備員の動きで伝わってくる。早めに出てきて良かったと思う一方で、僕の前で売り切れにならないように祈りたい気持ちにもさせられる。

発売開始時刻が近付いた頃、列の前の方からざわめきが広がってきた。何事かと皆が注視している中を警備員が大きな声で告げて回る。

「一人10枚のみの販売になります。連番やバラは選べません。窓口でお渡しする宝くじを・・・」

差し出された10枚入りの1袋を黙って受け取るか、やめて帰るかの二者択一ってことだ。選択の余地などないらしい。不満を鳴らすざわめきがさざ波のように流れ、やがて諦めのささやきが支配的になった。誰もが納得せざるを得ない人数が集まっていた。

ホッともしたけどガッカリもする。

手にできるのは10枚だけと決まった。予想もしなかった展開で、とたんに宝くじの取り扱いに悩んでしまう。手にするのが連番ならメイへ、バラだったら僕にって、そういう訳にもいかないだろうし。無条件にメイへ譲ってしまおうと考えもしたけど、変に気を遣わせるのもどうかと思うし。。

 

列が動き始めた。発売が始まったらしい。一人10枚が効いているのだろう、列の動きは想像以上に速い。

ごめんメイ、希望には沿えないかもしれないよ。