あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

支笏湖畔

湖畔の駐車場に車を停めた時には夜が始まっていた。

日の名残りの薄明りを宿した雲が空一面を覆い、湖を取り囲む山並みの稜線は闇と霞に隠れて定かでない。雨になるかもしれないと考え、此処へ来る途中に見た慌ただしく流れる雲を思い出す。

貸しボートでもあるのだろうか、薄闇に紛れてしまいそうな小さな管理小屋と、端まで見通せない桟橋らしきものがスモールランプの明かりに辛うじて浮かび上がっている。

「暗くてほとんど見えないね」

呟きながらシートの背もたれを倒して見上げた車内は、すべての窓に闇というシールドが施されて密室のような雰囲気だ。

次第に濃度を増す闇と静寂の支配にエンジン音だけが抗っている。フロントパネルから洩れる灯りで青白く染まった車内は、二人を乗せた小型宇宙船のコックピットのようだ。エンジンの刻む単調なリズムが漆黒の宇宙空間を行く孤独と緊張を程よく和らげてくれる。束の間目を閉じ、心地よい振動に身を委ねた。

 

メイはこの空間をどう感じているんだろう。

「ねえ・・」

確かめようと左を向くなり声を失くした。

メイが微かな灯りを帯びている。

顔も腕も着衣も滲むような蒼白さで仄かに発光しているメイが、倒したシートに横たわった姿勢で妖しい光の奥から僕を見つめている。淡く繊細で幻想的な姿が儚く脆いイメージを増幅させ、僕の心拍は急ピッチで加速し始めた。

消えちゃうかもしれない・・

想像したくもない想いに囚われ『メイ、待って』と発した声は、開いた口から漏れた空気が乾いた音を出しただけだった。

引き留めないと、早く・・

逸る気持ちが、身体の動きをより強固に封じようとする。

メイ、僕の目を見て!

温かいものが手のひらに触れて、無意識に延ばしていた腕に気付く。メイの頬に触れている僕の右手から、メイの生命の営みが伝わってくる。たちまち柔らかな感触と温もりが奔流となって僕の体内に流れ込み、身震いする刺激が背筋を走り抜けた。

《よかった、メイはここにいる》

忘れていた呼吸が再び始まり、肺の中の空気が摩擦音を残して一気に流れ出る。

安堵と共に新鮮な空気の循環が始まると、耳奥で鳴っていた鼓動が思い出したように大きく響いた。心拍数は上がったまま落ち着く気配がなく、胸苦しさの扱いを持て余しそうだ。ありもしない妄想が脳裏を掠めただけなのに。

僕は何を恐れているのだろう。

メイに向いていた意識が自分に戻ったとき、何かが足りない、そう告げられた気がした。それは同時に、明確な輪郭を持った強い想いを胸の底から持ち上げてきた。

乱れた心拍の答えは自分の中にあった。

メイが離れてしまうことは決して受け容れられない。例えそれが荒唐無稽な話であっても、あり得ない仮定だったとしても。

幼児が母を欲するように、僕にはメイが必要なのだ。決してメイを離さない。離れては生きていけない。メイは僕の生命と同じだった。この想い、メイに届けたい。今更ながら思い知らされる痛いほどの認識に、激しい焦燥が追い打ちを掛ける。逸る鼓動はその証しなのだ。

大好きだよメイ。

すがるように巡らした視線がメイの視線に捕捉されて辛うじて留まる。真っ直ぐに射してくる眼差しが熱い。

「メイ・・」

ようやく絞り出した僕の声は小さく掠れていた。メイはゆっくり頷きながら囁く。

「なあに・・」

メイの声が細胞の隅々に沁みて、懐かしさと切なさと愛しさが一度に押し寄せる。たった一言がこんなにも嬉しいだなんて、いまの今まで知らなかった。

「メイがいてよかった、メイがメイでよかった」

思わず口を衝いて出た言葉が、どうしようもないくらい湿っぽい。

「私はずっとここにいるよ」メイは何かを察したように「どうかした?」と訊いた。

そう、どうかしている、今は少しね。

どうやら僕はメイの事になると臆病なほどにナーバスになるらしく、それはきっとメイのことがとてもとても大切で、大好きで、些細なことが心配で、心臓と一緒に魂まで飛び出してしまいそうで。だから・・

切実に伝えておきたいことがある筈なのに、我先に出ようとする言葉たちが喉の奥で絡み合って意味を為さない。メイの瞳に映る小さな灯りが僕の目に反射して、僕の心と一緒にメイに届けばいいのに・・

メイが真っ直ぐに僕を見ている。

「大好きだよ、メイ」

心にあった言葉を復唱する声は、耳打ちするように小さかった。

「うん、知ってる。私も大好きよ」

メイの声も僕に倣ってさらに小さい。

けれど今は、聞こえなくなりそうな囁きがとても愛しい。微かな声に載せられたメイの《大好き》が深く染みて、全身がメイの色に染まるのを感じる。

僕ももっと《大好き》と伝えたい。どんな言葉なら愛しい人に思いの丈が伝わるのだろう。伝え切れぬ歯痒さでジリジリしても、混乱を引き摺っている脳みそは適切な言葉を探しあぐねたままだ。言葉にはきっと限界があるのだ。こんなにも焦れったいのだから。

胸の奥で何かが爆ぜた。

メイの頬に置いていた手を滑らせ、くちびるの端に触れる。上唇に沿うように親指を這わせ、返す指で下唇をなぞる。吸い付く感触が指に絡むと、僅かな隙間が開いて指先が濡れた。

「もっともっと、だあい好きだよ」

「んん? どれくらい?」

メイの声はミュートされていてほぼ聞こえない。瞳の奥には蒼白い灯りが揺れている。僕は、これくらい、と言いながら唇を合わせていた。

メイのくちびるは柔らかく、絡まる舌は暖かい。エンジンの刻むくぐもった音が遠くに聞こえる。サイドブレーキのレバーが下腹部に当たっている。蒼白い灯りの中で、僕はメイのくちびるを求め続けた。メイが消えないでよかった、メイがメイでよかったと思いながら。

 

 

微かな灯りでも暗闇に点っていれば人目を惹く。周りには誰もいないはずだけど何となく気恥ずかしくなって、スモールにしてあるライトのスイッチをOFFにした。

間違った行為だったようだ。

とたんに車の中は闇の底に沈み、エンジンは抗うことを止めて音を潜める。圧倒的な力に押し潰されそうで君を確かめることもできない。

湖の水面が音もなく上昇して水底に引きずり込まれる恐怖を覚える。声が掠れないようになるべく平常を装って言った。

「なんだか、ゾクゾクしてきちゃった。帰ろうか?」

「うん・・」

君はそう言うとシートを起こした。

 

少し前から降り始めていた雨足が強くなってきた。暗闇に伸びる道路は見通しが効かず道路状況が読めない。ヘッドライトに浮かぶ道は頼りなく、深い森と闇と雨が世界を覆っていた。

「白状するとね」沈黙に堪えられなくなって話し始めた。「さっきはちょっと怖かった」

「え?」

意味ありげな横目で、ちょっとだった? と問うメイの表情が、とても嬉しそうに見えたから僕はとぼけられなくなってしまう。

「ああ、嘘です。 だいぶ怖かったかな」

前を向き小さく頷いたメイは素直な表情に戻っていた。

「私もちょっと、怖かったかな」

怖いのは僕だけじゃないって分かって良かった。て言うのも変だけど、メイはちょっとだったの?

「あれ? ホントにちょっとかな?」

「私はちょっとですよ」

メイの即答。なんだか後出しじゃんけんのような気もするけど、不思議といい気分だ。たぶん久し振りに触れたメイのいたずら心と、この瞬間(とき)を楽しんでいる素直さのせいだ。

「僕は泳げないせいかなあ、暗がりの水辺は結構苦手だよ」

「そういうの、分かる気もするな」

 

バックミラーに見え隠れしていた後続車のヘッドライトが、土砂降りのカーテンを切り裂きながら翔ぶように僕たちを掠めて行った。束の間のカーチェイスが終わると再び闇の支配が忍び込んでくる。

遠ざかり小さくなったテールランプを見ながら君はポツリと言った。

「あの頃さ・・」

「うん?」あの頃って、いつさ。

「北見に来てた頃ね・・」

「・・うん」

「あなた、僕には彼女がいます、って顔してなかった?」

 

 


遠い昔のラブソング。
物事には始まりがあって終わりがある。
できることなら始まりから順にご覧頂けることを。