あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

始まりの北見で

何が起こったか理解したくない日々が続き、メイの言った「やめよう」だけが頭の中を廻り続けている。冗談かも知れない、間違いかも知れない、「ごめんネ」と言いながら仲直りの電話を掛けてくるかも知れない。もはや希望と言えない希望にすがりついているだけだった。

 

隙間だらけになった心と身体を幾筋もの時間が易々と通り抜け、好転の兆しも見えない事実だけが澱のように重く残る。今の僕に出来ることは何も無いかもしれない。それでも何もしないでいることにもう耐えられなくなっていた。

 

◇◆◇

 

数日後、北見へ飛んだ。

君の言う通りだ、すぐに会える距離ではないさ。飛行機の中で、列車の中で、《だからって、やめる理由にはならないだろう》そればかり考えていた。

目算など元よりある筈もなく、説得に至っては取っ掛かりから躓きそうだ。整理の付かない心は募る気持ちを抑え切れず、空回りを繰り返す頭は飾り物と化していた。目を見て話したい。それ以外、何も考えられなくなっていた。

 

夕刻、まだ退社時刻前に北見駅に着く。街へ出る気になれず、駅の待合室で君の帰宅する頃合まで待つことにした。

脚の角が丸くなったベンチも、出札窓口の下に貼られているポスターもあの時のままだ。特別な思いを抱いて列車を待っていた同じベンチで、今日は君の帰宅時刻を待っている。懐かしさと切なさが綯い交ぜになって、自分でも心の在り処を見つけられない。

 

列車が到着するらしく、幾人かが立ち上がって改札口へ向かう。列車を降りた乗客たちが目の前を通り過ぎて行く。繰り返される情景は誰にも気付かれない温かなざわめきだ。ここは彼らの日常であり、僕はその一角を掠め去るに過ぎない。一瞬の時を経て跡形もなく消え、また同じ情景が繰り返される。何も見ていなかった僕の存在は、たぶん彼らにも見えていない。

不思議な事に気付く。

あれ程までに胸の内で吹き荒れていた、疼きのような胸苦しさが薄らいでいる。

北見に居る。

という現実がそうさせているとしか思えない。耐え難い思いだけで矢も楯もたまらず来てしまったけれど、あれほど奮い立っていた気持ちは信じられない程に影を潜めてしまった。

僕はメイに何を話し何を求めようというのか。僅か数か月前に始まった場所で呆然とするよりなかった。

 

 

17時30分まで待って駅前の公衆電話ボックスへ向かう。誰もいない空間でメイと話したかった。終業後真っ直ぐ帰っていることを祈りながら、寮に電話を掛けて君を呼び出してもらった。

「はい・・」

ずっと焦がれていた声だ。

驚いた風もなく受話器から伝わるメイの声に、詰まらせた音が漏れそうで右手で口を塞いだ。思うように言葉を選べない。

「あ、俺・・」

「うん・・どしたの?」

メイの声に僕の心臓は過剰反応している。大きくゆっくりと息を吐き、それから言葉を絞り出す。

「いま北見駅にいる。これから会えないか?」

「・・・・」

驚いているのか、戸惑い警戒しているのか、メイの様子は見えない。

「ねえ、僕にはさっぱり分からないよ、なんでやめなきゃならないのか」

「・・・・」

「話したいんだ、会ってくれないか?」

メイの迷っている様子が息遣いで伝わってくる。充分過ぎる無言の後で無機質な声音が小さく届いた。

「今日は、行かれないわ。明日にできない?」

「そうか・・・」結果が見えた気がした。

半ば予想していた反応に胸の底に溜め息が落ちる。それでも会っておきたい。これが最後のチャンスなら特に。君の心に触れることはできないとしても。

「明日だね・・」

可能性がゼロでない限りは。

 

 

ビジネス宿の朝には決められたスケジュールがあり、流されるまま外へ出た時はまだ9時を過ぎたばかりだった。

「さて・・」

駅へ向かって歩きながら夕刻までの時間の使い方を思案する。行く宛も目的もなく過ごすには良い季節とも言えず観光施設があるとも思えない。何も思い付くことなく駅前まで来たものの、立ち止まることが躊躇われて通り過ぎることにした。

あと1時間もすれば店も開くだろう、なるべく気楽な思考で行こうと決めて開店前の商店街を巡ることにした。

数か月ぶりの北見の空は鉛色の雲に覆われ、色を失くしたモノトーンの街並みは心なしかよそよそしい。

『キミたちに疎まれる心当たりはないけどな』

もっと穏やかに再訪したかったよ、街並みに向かって肚の中で呟いた。雪こそ降ってないものの、通り抜けてゆく風は遠慮なく肺の隅々まで冷やしてくれる。僕は白い息を盛大に吐きながら商店街を歩き、昨夜のことを反芻していた。

 

夕食を済ませてから駅近くにビジネス宿を見つけた。自分の置かれている状況が情けなく恥ずかしく、心の何処かが自分の行いを非難してる気がして宿帳にはどうしても本名を書けなかった。こらえ切れず強引にメイに会おうとしている自分と、それを許さない自分とがせめぎ合い、街の静寂が深くなっても寝付けずにいた。
シンと冷えた空気と白み始めた外の様子に気付いて目が覚めたことを知る。少しばかりトロトロしたらしい。眠りに落ちる前の記憶が甦り、終わりのない葛藤と無毛な堂々巡りの始まりが頭をよぎる。無力感に襲われそうになった時、列車のディーゼル音が聞こえた気がした。
北見の朝が始まっている。僕はここにいる。言い聞かせるようにもう一度呟いた。
「僕は北見にいる」
どういう経緯であったとしても今はメイと同じ北見で朝を迎えている。これから始まる一日は同じ地域で呼吸し同じ産地の食材を頂く。それは同じ市内で生きるということだ。近くに感じるメイの存在は生きる希望でもある。たとえ短時間であったとしても。
もう考えるのは止めよう。ぽっかり空いたこの一日、何も考えずに過ごそう、メイに会うまでは。

 

 

約束の時刻よりだいぶ前に駅に着いてしまった。店の名前を言われても分からない僕のために、待ち合わせ場所に適当なのは駅しかないとふたりで決めていた。

待合室へ入り昨日と同じベンチに座る。窓口もポスターも昨日と同じ場所で同じ顔をしている。でも何かが違う、咄嗟にそう感じていた。

待合室から眺める外の風景も、心なしか柔らかな表情をしている。歩き疲れた足をさすりながら、身体の疲れが心理的な緊張を解した効用かもしれないと考え、これから会うメイの表情を想像する。

穏やかな表情は無理だとしても、心は閉ざさないでいて欲しいと願う。ふたりの時間を諍いや殺伐とした雰囲気で終わらせたくなかった。

 

約束の2分前に現れた君は、少しの緊張の中に愁いと優しさを湛えた表情をしていた。

ほっとしてしまう自分に呆れると共に『そんな顔、反則だぜ』とも思う。

互いに言葉を見つけられないまま頷き合う。

「場所、変えようか。どこか知ってる?」

立ち上がりながら尋ねた僕に、君はもう一度頷いて先に立って歩き始めた。

 

向かい合わせに座ったメイは全くの無防備だ。馴染みの店なのか初めてなのか、尋ねることは憚られる気がした。その佇まいと表情からは反論する意思も争う姿勢も感じられない。そしられ罵られてもすべて受け入れ、微笑みだけを返す積りなのだろう。

端正な顔に静かな慈しみを浮かべて、メイは僕の言葉を待っている。

そんな顔するなよ。何も言えなくなってしまうだろ。

「元気そうだね」僕は受けた印象をそのまま口にした。

「うん・・」君は何と答えようか迷っているようだ。

「もう少し硬い表情してると思ってたから」

「緊張してないように見える? そんなことないわ、とても・・」

「そう、どんな時でも変わらないんだね」

「・・・」君は唇の端を少し上げて、どうにか微笑む。

僕は少し躊躇ってから、やはり今の心境を正直に話そうと決めた。

「僕はねメイ、訳が分からないんだよ。嫌いになったとか、他に好きな人が出来たって話なら、受け入れられないまでも理解はできると思ってる」

「ごめんなさい。嫌いになったわけじゃないし、好きな人もいない。電話で話した通りよ。ほかの理由なんてない・・」

僕は君に判らないように溜め息をつく。

「僕はメイを嫌いにはなれない。諦めることもできない。そんな理由を受け入れられると思う?」

「ホントにごめんなさい。でも決めたことなの、もう決めたのよ」

「決める前にさ、僕に相談しようとは思わなかったの?」

「うん、でも結局は自分が決めることだから、自分で決めなきゃいけないことだから・・」

「強いんだな、メイは」その強さを僕とのことに向けろよ、と言いたかった。

胸のずっと奥の方で、メイと会っても、どんなに話しても、たぶん上手くいかない、って分かっていた。だけど認めたくはなかった。ほんの僅かな可能性でもそこに掛けたい気持ちが認めるのを拒否していた。

「僕はなんていうか、グズグズだよ。今だって怒った方がいいのか、泣き喚いた方がいいのか・・自分の感情をどんな風に始末したらいいのか分からないでいる」

「ホントに、ごめんね。辛いけど私、そう決めたんだ。だから何を言われても仕方ない、何をされても・・・言い訳はしない・・」

メイの声が僕の頭を素通りし始め、意味のある言葉を結べない。

僕を愛したくちびるが滑らかに動いて、うっとりする音楽を奏でている。僕は理解することを止め、胸の奥に沁み入る音律だけに身を委ねていた。

奇麗だ。

突然そう思った。自分の置かれている状況など何処かへ飛んでいた。

それほど、覚悟を決めている君はとても美しい。

二人の間の何もかもを超越したところで素直にそう思う。

そしてそれが僕にとって残酷なことであったとしても、メイを美しいと思えてしまう心を抑えることができない。

何千回も頭の中を廻っていた《だからって、やめる理由にはならないだろう》という言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。あれほど身体中に充満していた負の感情はメイの姿と声に触れて浄化され、胸の裡から湧いてくる感情は懇願に近いものに変化している。

やっぱり僕には君が必要だよ。

 

いつしか堂々巡りの会話を避けるようになり、自然と雑談になった。愉し気な恋人同士を装ってはいるけれど、あれほど心に響いていた言葉たちは、どこか虚ろで時間だけが過ぎてゆく。

君は自分で出した答えを頑なに変えない。一番知りたくないことが僕にも伝わって、電話で聞いた話を再確認するだけの結果に終わった。

君のその頑固なところは皮肉にも僕がメイを好ましいと思う大きな要素であって、だから同時に弱みにもなっていた。この期に及んでもメイを困らせたくないし、悲しむメイを見たくないと思ってしまう自分を呆れて持て余していた。

「俺は、馬鹿だ」と心底思う。

 

君は何を話し、僕は何と言ったのだろう。

 

◇◆◇

 

「駅まで行くよ」

「ん・・」メイの言葉に素直に頷く。

僕たちは喧嘩別れではないのだ。その意味を改めて噛み締める。違いなど判らないけれど。

軽口を言い合いながらふたりで駅前まで歩く。時折見せるメイの笑顔はどこか清々しい。駅前の信号まで来たところでメイと僕は呼吸を合わせたように立ち止まった。暗黙の了解が成立していた。

さよならは言いたくなかった。

「それじゃ・・」またね、が続けられず僕の顔は少し歪む。「ここで・・」

君は僕の眼を見て大きく頷いた。引き締まったいい顔をしている。

僕は信号を渡ったところで振り返り、大通りの真っ直ぐな道をゆっくり歩いてゆくメイを見ていた。暗がりで見えなくなり街灯に浮かび上がりを繰り返しながら、メイの後ろ姿は少しずつ小さくなって行く。メイは一度も振り返らなかった。

 

メイの姿が視界から消えると世界が一変した。

目に映る映像も文字も、耳に入る音も、街を照らす灯りも意味を成さない。予想もしなかった世界に放り込まれ、変化の大きさに僕の心は追い付かない。

網膜の中の景色が不規則に拍動し、いまにもぐにゃりと捻じ曲がりそうだ。強い眩暈を覚えてきつく目を閉じると手足の先がスッと冷たくなる。胸の奥に詰まっていた血の塊が膨れ上がり全身に悪寒が走る。顔が蒼白いのは寒いせいばかりではなかった。

 

◇◆◇

 

2歩先をメイが歩いている。

斜め後ろから見るやや俯き加減の横顔は、心なしかどこか寂し気で怒っているようにも見える。その上ずいぶんと足早だし、おまけにずっと無言で、僕が何を言っても無視し続けている。

なかなか追い付けない僕は、少し苛立った声を上げた。

「メイ! ねえメイったら! ちょっと待ってよ」

「・・・」

相も変わらぬメイの態度に『怒りたいのはこっちだよ』と呟きながら手を伸ばした。

振り返らせようとした手が何もつかめずに空を切る。募る焦りで強張った手はいくら伸ばしてもことごとく空を切り、メイは増々遠ざかって行く。ヒヤリとした感覚が全身を走り嫌な汗が滲む。

「待って、メイ待って!!」

振り絞った喉は引き攣るばかりで、ひゅうひゅうと空気の漏れる音がする。

不審に思ったものの考えている余裕などない。急がなければ、早く呼び止めないと、もっと大きな声で! 思い切り声を出せ、大きく息を吸え、息を!

逸る気持ちとは裏腹に、捩じれたストローと化した気道は思うように空気を通さない。

何かおかしい、と勘付いた刹那、猛烈な息苦しさが襲ってくる。大きく開けた口は何の助けにもならない。息が、空気が、肺まで入らない! 恐怖に震えそうな心を必死で奮い立たせ、残った空気を搔き集めて叫んだ。

「メイ!、メイ!、メイ!!」

くぐもった叫び声が間近に響く。

耳に届いた自分の声は、虚像と実像の間にある確かな乖離を際立たせる。切迫した状況がどちらであるかは明白だ。夢だ・・、と自覚できた瞬間だった。

良かった、夢で。肩から力が抜ける。

けれど緊張がほぐれて平穏が訪れたのは、夢から覚めたほんの一瞬でしかなかった。悪夢からは抜け出せても、現実から逃れる術はない。

たちまちメイを失った圧倒的な事実に飲み込まれ、粉微塵となって夢と現実の狭間に落ちて行った。自分のいない世界がすぐそばまで来ていた。

 

どれくらいそうしていただろう。身じろぎをして強張った姿勢を正し、薄っすら目を開ける。どうやらシートに座っているらしい。それも飛行機の。

このシートに座るまでの経緯を思い出せない。

この飛行機は何処へ? 列車は、空港は、チケットは? すべての出来事が遠く、記憶が無かった。どうやってここまで・・、思い出そうとしてすぐに止めた。

思い出したくない現実がそこにあった。

 

柔らかく艶のある純白の綿雲が、陽光を浴びて輝きながら遥か彼方まで連なっている。雲海の僅かばかり上に浮かぶ銀色の機体は、青く染め抜かれた広大過ぎる空の下で、かき消されそうなほどに小さい。そして孤独だ。

『全部、消えてしまえ・・』

あの日以降すべてが無意味になった。仕事も、人生も、社会も。ありったけの呪いの言葉が吹き出しそうだ。

突然の静けさが訪れ、両耳に装着していたイヤホンに気付く。意識の外側で鳴っていた音楽が止み、代わって機長の声が響いた。着陸態勢に入るため機内放送のサービスは終了するようだ。

純白の大海原が徐々に競り上がり、やがていくつもの波頭を掠めるように切り裂いて雲海の底へ沈み始めた。波間はすぐに見えなくなり窓は風景を写さなくなる。

方向感覚を失くしそうな灰色の世界が一帯を覆い、進んでいるのか落ちているのかも分からない。叶うなら永遠にこうしていたい。

先ほどイヤホンから流れていた曲が唐突に再生される。

 ~ 最終電車で 君にさよなら・・

外したはずのイヤホンを無意識に指で探っていた。

 ~ いつまた逢えると 訊いた君の言葉が・・

逢いたいのは僕だけで、「もう逢わない」って言ったのはメイ、君だよ。

灰色のカーテンが取り払われ、薄墨色の紗に覆われた東京の街並みが表れる。厚い雲をようやく抜け出したようだ。東京湾上空で旋回した飛行機はさらに高度を下げる。

 ~ 東京へは もう何度も行きましたね・・

鈍い音と共に重い衝撃が突き上がり、ざらついた滑走路を走る振動が機内を激しく揺さぶる。胸奥深く押し込めていた数多の想いが掻き混ぜられて舞い上がり、僕の体内はどろりとした苦いものに支配される。

無理だよメイ。 僕には耐えられない。

後方へ飛び去る滑走路が滲んでぼやけた。