あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

宿題

恋の模様に縁どられ、愛の言葉に満ちている ―― 思い描いていたラブレターの定義からすると、僕が書き続けている手紙はその定義から大きく逸脱していた。

日記調であったり行動記録であったり心理描写であったりしながら、僕という人間の特質や傾向、行動様式、性癖などを伝えようとしていた。

思いを伝える言葉を書き連ねることはあっても、それだけに終始することはなかった。ドアをノックするようにして始まった手紙は、いつしか日常の描写や時々の機微の報告に変質してゆくのが必然だったのかもしれない。書き続けて行くうちに僕自身を分かって欲しいという思いが湧いてきていたからだ。

こうした内容が、女性に送り続ける手紙の体裁として相応しいかと問われれば、多分に変則的なのだろうことは自覚しているが。

それでも敢えて伝え続けたい。見聞きしたことを言語化し、心の内面をたどる表現に惑い、五感に受けたシグナルを紙の上に再現しようと藻掻いた。これらすべては君の知らない僕を知ってもらうための不可欠な要素で、多くの恋人たちが日常の些末な出来事を語り合う行為を手紙の上で真似ようとしていた。

奏功する確証や目途など端からかなった。止めようという選択肢は何処にもなかった。

 

◇◆◇

 

―― 抱えきれない思いをダイレクトに届けよう。心の底から湧き上がる熱い思いを言葉にして伝えたい ――

どれほど切実な願いであっても、会うことを拒否されている状況では率直な行動は躊躇われる。前段階として聞く耳を持ってもらう必要があった。電話でのアプローチは「No!」の一言で終わるだろう。半年以上絶たれている接触を再び始めるに当たっては《手紙》という手段しかないのが実情だった。それは遠くからの囁きにも似て反感を持たれ難い始まり方である半面、反応を窺い知ることが難しい方法だろう。応答も強くは望めないとなれば心細さは拭えず不安にも駆られる。
それでも始めることに迷いはなかった。メイと僕の新章をスタートさせたい、メイのいる向こう側へ行くためのこれが第1歩だから。
それに片道通信であることは《反応に一喜一憂することなく、抱いている思いや考えを一つずつ丁寧に届けることができる》という利点がある。破られても捨てられても、振り向いてくれるまで送り続けることは片道通信だからこそ可能なのだ。

 

◇◆◇

 

手紙による一方通行のメッセージは、ほぼ定期便のようにして続けている。問答無用の我武者羅さで突き進んできたと言えるかもしれない。そうでなければ無力感に陥りかねない片道通信を長期に亘って継続することは叶わなかったと思う。振られた相手を信じるというのもおかしな話だけれど、理屈抜きで信じたいものを信じ切る愚直さが必要だった。

これ以外に道がないとなれば腹も据わるものだと教えられた気がしている。

 

半年ほどが経過して手紙にまつわる行為が生活の中にすっかり馴染む頃になると、《届いている》という確信のようなものが身体の隅っこの方に芽生え始めてもいた。妄想だと片付けてしまうのは筋違いに思えるほど、もっと前向きで偏執とは無縁の明るい展望を持った感覚だった。それは時間とともにさらに進化して《メイはきっと応えてくれる》と思えるまでになっていた。

迷惑に思っているだろうか ―― などのマイナス思考は胸の奥深くに押し込めて蓋をしておくことも忘れなかった。

 

 

手紙を送り始めて10ヶ月近くが経過した頃、意識の中心に芽生えたものが次第に色濃くなっていた。君の誕生日が近付いていた。

普通に(普通って何だろう)逢瀬を重ねている二人なら当然訪れるその日を、贈る側も贈られる側も胸躍らせながら心待ちにするのだろう。僕たちは互いの誕生日を祝うこともできないまま別れてしまっていた。

この状況でメイの誕生日を祝う行為は非常識の謗りを免れないのだろうか。ネガティブな想像は掃いて捨てるほどあるとしても一方通行ながらも連絡が続いているいま、《きっと応えてくれる》と確信できているこの時に、メイの心を躍らせ、閉じてしまった心を開かせる暖かい風を届けたい。ありったけの心を込めて《おめでとう》を伝えたいという思いは否定的な考えを覆い隠すほど強くなっていた。

 

何を贈るかについてあれこれと迷うことはなかった。それは初めから用意されていたかのようで決定事項として揺るがなかった。理由は自分でも分からない。おめでとうを伝えようと決めた時には他の選択肢は浮かばなかった。

問題は東京から送る方法がないことで、調達と指定日の配達を引き受けてくれる店舗を北見で探す必要があった。

確実に届けてもらうためには、なるべく住まいに近い店舗がいいだろう。

そこまでは考え付くものの北見市内の情報など持っている筈もなく、気持ちがいいくらい知識もゼロだった。

電話番号を調べるところから始めよう。そこでおのずと店舗名も判明する。

 

 

メモ用紙と鉛筆を用意して電話の前に座り込み深呼吸する。

作戦開始だ。

受話器を取って 105 をダイヤルし、応答したオペレーターに北海道北見市の電話番号を調べたいと伝える。

<お繋ぎします。少々お待ちください>

北見市の案内へ繋ぐらしい。可笑しいくらいにドキドキしている。

<はい、北見市の番号案内です>

さあ、始まりだ。

「あのう、北見市の花屋さんの番号を知りたいんですが・・」

<はい、なんという花屋さんでしょうか>

「ええと実はですね、具体的な花屋さんを知ってる訳ではなくて、花月町の友人に花を届けてもらおうと思って。それで花月町周辺の花屋さんの番号を知りたいんですが、そういう事でも調べて頂くことできますか?」

何十回と質問と答え方を練り直してきた甲斐があった。こちらの事情と訊きたいことは伝わったと思う。

花月町近くにある花屋さんですね・・少しお待ちください・>

調べてくれそうで心底ホッとした。1分ほどで応えは返ってきた。

<申し訳ありません。花月町というと住宅街になりますので、その辺りに花屋さんは無いようですね>

「あ、そうですか」気分は急降下していた。「住宅街なんですね・・」

ガッカリした気分が伝わったらしく、オペレーターは元気づけるように言ってくれた。

<駅の近くでしたら何軒かありますが、花月町でなければいけませんか?>

天使の声のように聞こえた。もちろんOKだよ。

「駅の近くで構いません。4,5軒教えて頂けますか」

<かしこまりました。駅から花月町まではそれほど遠いという訳ではありませんから、大丈夫だと思いますよ>

親切なオペレーターで、おまけに土地勘もあるらしい。僕は店の名前と電話番号をメモして復唱し、礼を言ってから電話を切った。

歩み始めた道に明かりが差し込んでいる気がしてきた。

 

 

「バラの花束を指定した日に届けて頂きたいんですが、電話で注文することって、できますか?」

<はい、承りますよ。ご希望の種類や色はございますか?>

端から電話をかけまくる積もりでいたけれど、幸いなことに1件目の花屋さんが対応してくれることになりそうだ。

「済みません、ほとんど知らないんです。赤いのがいいかなくらいで・・」

実際に花屋の店先を覘いたこともないのだ。気恥ずかしさを覚えて赤くなりそうだった。電話で良かったと思い始めていた。

<よろしかったら、何に使われるか教えて頂けますか?>

「誕生日のプレゼントにって考えてます」

<でしたらやはり明るい色がよろしいですね。幾つかの種類を混ぜましょうか?>

なるほど、混ぜるという手もあるのか。魅力的な提案に心は動くものの実際に確かめることは叶わない。ここはすべて同じ品種で攻めよう、その方がインパクト強そうだし。

「あ、いえ。全部同じ種類にして下さい」

<はい、お花は何本要り様でしょうか?>

「24本にして下さい」

<24本同じ種類ですね。色についてのご希望はどうされます?>

「赤のイメージが一番強いんですが、どうしようかな・・」

<濃い赤からピンクに近いものまで色々ありますが、お好みの色でよろしいと思いますよ>

ピンクに近い色ね、それも可愛いかもしれない。でも今回は強いメッセージを送りたい、手紙の次の段階へ進みたいとの思いがある。ならば飛び切り濃い赤、紅色くらいが良いのではないか。

「そしたら紅色って言ったらいいのかな、くっきりとした赤にして下さい」互いに見えない状況で色や形を言葉で伝えるのは難しい。まして僕はドシロウトだ。「そして細かなことはお任せするより無いんですが、誰が見てもバラと分かる品種で選んで頂けますか」

かましいとは思ったが、お願いするよりなかった。

<はい、よろしいですよ>

「良かったあ、助かります」本音だった。「よろしくお願いします」

<はい畏まりました。それでメッセージカードはお付けしますか?>

普通なら付けるんだろうなと思う。映画などでもそうしたシーンをよく見かける。でもメッセージは僕が直接伝えたい。

「メッセージカードは要りません。直接電話したいので」

<そうですか。他にご希望はございますか?>

メイの誕生日に間違いなく届けてくれればそれで十分だった。その後は僕が何とかするしかない。

届け先等の要点を書いたメモは書留に同封することになった。

 

 

誕生日プレゼントの準備を済ませた後も、続けている定期便の内容に変化が現れないよう細心の注意を払っていた。そうやって踏ん張ってないとネガティブな心理に覆われそうだったからだ。

我武者羅に突き進み《メイはきっと応えてくれる》と愚直に信じてきたものが、誕生日までのカウントダウンが現実となることで不安に揺らぎ始めていた。

原因は判っている。誕生日に下される判決の決定権が僕にないからだ。

心の奥底に押し込めていた不安材料がモソモソと動き出し、カウントダウンと共にその存在感を増してくるのを覚える。

カウントゼロとなったその日に、不安が現実とならない保証はどこにもなかった。一刻も早く終わって欲しい気持ちと、永遠に先延ばししたい気持ちが混然となって身体中を駆け巡り、自分の行動に責任を持てなくなりそうだ。

 

 

大きく吸った息を、ゆっくり吐き出して受話器を取る。

気まずい空気が流れることも、拒絶されて電話に出てくれない可能性もある。こういう状況で頭をよぎるのはいつも一番最悪なケースだ。

判断材料が何もないなら可能性は五分五分と考えよう。たとえ今日が不首尾に終わってもそこから再スタートすればいいのだ。

 

寮の番号をダイヤルして待つ。呼び出し音が出るまでの数秒が長い。

応答した声に向かって名乗ってから君の名を告げる。

《お待ちください》の声と受話器を置く音が北見から届く。

受話器を持つ手に力が入って指先まで強張っている。心臓が口から出そうだという比喩はあながち嘘でもないようだ。飛び跳ねる心臓がのどに詰まって息苦しくて堪らない。

 

「わあ、届いたよ、ありがとう・・」

瞬時にスイッチが入る。メイの声に触れたらもう止められない。僕の意識は身体ごとあの頃に翔んでいた。

「誕生日、おめでとう!」

「ありがとう、驚いたわあ。帰ったら玄関に届いてるでしょ、誰よって見たら私宛てで。もう、ビックリよ」

ずっと待ち焦がれていた声が耳元で快く響いている。何も変わってないあの頃のままのメイが受話器の向こう側に居る。たちまち拡がり始める懐かしさと愛しさが身体中を駆け巡って思わず受話器を抱き締めていた。

「・・・・・もしもし?」

くぐもった声が胸の辺りから小さく聞こえて慌てて受話器を耳に当てる。

「あ、ごめん。ちょっと・・」

「え何? どしたの?」

「受話器を外しちゃって・・」

「そうじゃなくて、声が変だよ」

「え? あ・・」いけねぇ、しんみりしてるのがバレてしまう。「懐かしい声が聞けたからね、なんだか緊張しちゃって」

受話器を抱き締めてたなんて言える訳がない。

「うん、久しぶりだね。それにしても突然なんだね、何の前触れもなしに」

「驚かそうって思ってたから」

「憶えててくれたんだね」

「忘れる訳ないでしょ、メイの誕生日を」

「・・けど私、誕生日をあなたに話したかな」

「忘れたの? 僕が北見にいた頃、誕生石の話をしたことがあったでしょ。その時に言ってたよ」

「そうだった? それを憶えてたの?」今度はメイがしんみりする番だった。「・・嬉しいわ、ありがとう」

メイの《嬉しい》が僕の脳髄を直撃する。

「メイの元気な声が聞けて僕も嬉しいよ。ずっと話したかったから」

「手紙、たくさん貰ったよね」

「見てくれた?」

「全部、読んでたよ。それでね、いつか電話がくるってずっと待ってたんだ。こんなこと言える立場じゃないけど」

「それなら電話、してくれても良かったのに・・」

「あんなことしたからね、とても私から電話できないよ」

「メイから電話があれば、どんな状況でも僕は嬉しいけどな」

「んん、じゃあ、今度ね」

「ちょっ・待って。ああいうのはもう御免だよ」

「そだね、ごめんね」

僕だってメイの誕生日を電話のチャンスと捉えていたから大きなことは言えない。

「あのさ、花束にメッセージカードが無かったでしょ?」

「ああ、そう言えば」

「花屋さんには『どうしますか』って訊かれたんだけど、断ったんだよ」

「どうして?」

「直接『おめでとう』って言いたかったから」

「・・・」

「それに、声を聞きたかったし」

「私も話したかった。だから今日はとっても嬉しい」

メイと話してると1年半のギャップなど初めから存在しないかのようだ。抱え込んでいた不安は嘘のように消し飛んでいた。

「メイは変わってないね。話してるとあの頃がそのまま続いてるようで、なんだか不思議な気がするよ」

「ん、私も。変な感じね。時間は過ぎたはずなのに」

「そうだな、過ぎた時間の分だけ変わったはずなのに、あの頃と同じように話してるから新鮮な驚きがあると言うか、昔の自分たちを見ている感覚なのかもしれないね」

「物事を難しく捉え勝ちなところは、あなたも変わらないわね」

「あれ? そう、でしたか?・・」

「ほら、そうやってトボケるところも」

思わずニヤッとした時、メイも一緒に笑っている空気が伝わってくる。どことなくあった二人の間の緊張感がほどけた瞬間だった。

「そう言えばね」と言ったメイの声には打ち解けたトーンが滲んでいた。「頂いたバラを私の部屋だけじゃ飾り切れないから、少し分けようかと思って」

「お祝いのお裾分けだね、いいんじゃない」

「それで、分ける時に数えたのね」

「うん・・」

何かあったのだろうかと身構えた僕を、君は面白がっている風に勿体をつける。

「そしたらね・・」

「う、うん・・」なんだ? 何があったんだ? 胸がザワザワしてくる。

「そしたら・・・1本多かった・・」

「え?」

妙に高い声が出てしまった。それが可笑しかったらしく君は半分笑いながらもう一度言った。

「1本多かったのよ」

「ぇぇぇ...」

予想もしなかった事態に喉からは掠れた音が漏れ続ける。真っ白になった頭で必死に言葉を絞り出そうとした。

「ごめんねぇ・・」言うべきか言葉が見つからない。「笑って許してくれたら、とても嬉しいな・・」

「もちろんよ。ハハハって、これでいい?」

「ありがとう。最高の贈り物だよ」

 

 

これ程の幸運を誰が予想できただろう。

僕たちは再び始まる。

電話は解禁になり『近いうちに会いたい』と漏らした言葉に返ってきたのは好意的な反応だった。1年半のブランクが信じられないくらいにメイは僕を受け容れてくれたのだ。胸は高鳴り身体の隅々に新鮮な生命力が漲って心臓が痛いほどだ。メイの誕生日なのに、一番の贈り物を受けたのは僕になっていた。

メイの誕生日は僕たちの再出発の記念日にもなった。

 

電話が終わった後しばらくは何も考えられず、呆然とした頭を放り出したまま余韻に浸っていた。魂を抜かれて薄ら笑いの顔をしていたかも知れない。周りに誰もいないのが救いだった。

少しずつ余韻から醒め反芻するように振り返り始めた時、見過ごしていた疑問があることに気付いた。

1本多いって、本当は何を言いたかったんだろう。

あの時は何かの手違いで1本余計に紛れ込んだものと思い込んでいたけど、花束は指定通りに届けられたとすればメイの言葉は違った意味になる。

これから確認する訳にもいかないし、時間が経てば電話では訊き辛くなる。思い込みから確認さえしなかったバラの謎は次に会うまでの宿題になりそうだ。

バラは何本あったのだ。ああ、もやもやする。