あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

夢とうつつと

東京駅から中央線に乗ると小一時間ほどでK駅に着く。北口の改札を抜けて外へ出ると、そこは小さな浅いすり鉢状の底になっていて、真正面に見える道以外にはここから抜け出せる道は見当たらない。狭いなりの駅前広場にはバスやタクシーや歩行者が行き交い、通勤時間帯ともなれば混沌を絵に描いたような様相を呈する。混雑もここまで来ると事故は起きないらしい。

僕が以前勤めていた事業所はここから徒歩10分くらいの位置にある。その事業所は近隣地域の中核拠点と位置づけられていて、それなりに大きな規模を持っている。もちろん社内組織上の問題であって行政の区分とは無関係だ。

 

◇◆◇

 

その事業所は木造から建て替えられたばかりの事務棟と、5メートルほどの渡り廊下で結ばれた機械棟で構成されている。以前僕は木造社屋で働いていたこともある。

渡り廊下の中央にある職員用の通用口を入り、左側の機械棟へ向かうとすぐに階段がある。その階段を2階へ上がって廊下を右に行けば、突き当りに鉄製の扉が見える。その中が僕の仕事場である機械室だ。手前左側は休憩室兼宿直室になっているが、勤務時間真っただ中のこの時間帯では誰の姿もなかった。

 

◇◆◇

 

突き当りの鉄製の扉には、目の高さの位置に数字の並んだ入力パッドが埋め込まれている。僕は4桁の暗証番号に続いてENTERを押し、カチッという解錠音を聞いてからノブを回し、押し込むようにして重い扉を開けた。最後にここに入ったのは随分前のことになる。

機械室履きに履き替えてさらに奥の扉を開くと、広い廊下のような通路がまっすぐ伸びている。通路の両側には部品や工具を収めたスチール棚、回路図の入ったキャビネットや書庫、作業用デスクに事務机が並び、その先に試験・制御を行う装置や配線盤を並べたフレームが見える。右側の並びの背後は仕切り壁になっていて、壁の向こう側には多くの機器が膨大な量のケーブルで結ばれて、ガシャガシャと動いているはずだ。

見知った作業場を促されるように先へ進んでいると、不思議な感覚が頭の隅をかすめた。

 

僕は何をしているのだろう、何年も前に転出したはずのこの場所で。すれ違う人も作業中の人も知った顔は一人も居ない。それでも何かに導かれるように進むことを止められない。僕は何をしに来たのだ。何かがおかしいと感じるものはあってもそれを指摘できない。このもどかしさは、夢を認識している時の感触に似ている・・
そうかも知れない。一瞬かすめた感覚はそれきり消えた。

 

スチール製の書庫で囲った作業スペースがあった。真ん中に事務机や作業テーブルが長方形に並べられ、数脚の椅子が適当に置いてある。幾人かが回路図を広げているテーブルの向こう側に、扉を閉じた機械室の入口が見えた。

機械室に用があった事を思い出し、奥へ進む前にこちらの用件を先に片づけておくことにした。椅子を脇へ避けて機械室へ向かうと、腰高の収納庫が進路を邪魔するように放置されていた。右側に並んだ背丈よりも大きい書庫と、左の作業テーブルの間の狭い空間が余計に狭くなっている。

『ったく、こんな所に置きっ放しで、邪魔だろが』

胸の中で悪態をつきながら、機械室との仕切り壁に向かって邪魔な収納庫を押し始めた。その辺の隙間にでも押し込むつもりだった。

囲まれた作業スペースを出たところで、書庫の影からタイミングよく人影が現れ、手伝うように近付いてきた。

サンキュー、礼を言おうと振り向き、そのまま凍り付いてしまった。

「メイ・・」

空気の漏れるような音しか出ない。大きく開いた眼は瞬きもできず、呼吸も忘れてしまった。

メイが目の前にいた。僕と同じ作業服で。何故ここに君がいる。君はどうやってここへ来た? ここで何をしている? 出張? 転勤? 東京へ? 嫌じゃなかったの? 渦巻く疑問に絡めとられて身動きでない。何が起こっているのか理解できない。

 

「片付けましょう」

僕の様子を見兼ねたその女性(ひと)は優しく言ってくれる。

ああ、その声だよ。忘れられない懐かしい声が直接脳に響く。全身に指令が走り筋肉が一瞬痙攣する。目をしばたたき肺が空気を吸い始める。

掛けられた言葉にフリーズ状態を解除された僕は、ようやく真面に顔を見ることができた。紛れもなくメイだ。心臓がフルスロットルで踊り出して作業服からはみ出そうになる。

気付かない振りなんかしないで。君はメイだよね? 違うの? 僕の自律神経は少しずつ狂い始める。平常心なんて吹き飛んでいた。僕は再び動けなくなる。

 

その女性(ひと)は、さあ、と気遣うようにこちらに目を向け「片付けましょ」ともう一度優しく諭すように僕を促す。

その目は間違いようがない。メイだ。そしてその声も僕の耳に刻み込まれているメイの声だ。なのに記憶と現実が乖離したままで重ね合わせることができない。

盲目的に目の前の作業をこなすだけで、収納庫を押している実感はまったくない。

いつの間にか北見の機械室で収納庫を片付けている。気配を感じて隣に目を遣ると僕と同じ作業をしている人の横顔があった。形のいい頭はショートボブに柔らかく包まれている。眉の下でピンとカールした睫毛、奇麗なアールを描いてエッジを利かせた鼻筋、何か言いたそうな愛くるしい唇、華麗なオーバーハングの顎のライン、そして僕の頬に触れたことのある手と指。どれもこれもが持ち主はメイであることを語っていた。僕はメイと一緒に片付けをしている。

詰めていた息を吐き出すと国分寺に戻っていた。これまでの年月が、楽しかったことも悲しかったこともすべての出来事が、この瞬間に凝縮されている気がして自分の感情を整理できない。何から手を付ければいいのか見当もつかない。《壊れる》という感覚が時折走る。鼻の奥が痺れて、湧いて出そうになる涙を鼻をすすって誤魔化す。隣を見れば君の瞼の淵にも透明なものが溜まっている。やっぱり君はメイなんだよね。

 

収納庫は機械室入口の右側の壁面に押し込むことができた。僕たちは自然と正面から向き合う姿勢になり、僕は自分の心を声にしていた。

「メイ」

手を伸ばせば触れる位置でメイは小さく頷く。二の句を継げないでいる僕と、言葉を失くしているメイは立ち竦むしかなかった。

潤んだ瞳だけが繋がろうとしていた。そうしていればこれまでの空白の時間が埋まるとでもいうように。瞳の奥の揺らぎで心の裡が読めるかのように。言葉ではなく瞳で通じ合えるならどれほどいいだろう。

 

あの日を境に、君の暮らしに変化はあったのか。日々の生活の中で何を思い、何を見てきたのだ。僕の束縛から解放された沢山の時間を、君は何に使ったのだろう。
宝くじの依頼はそこに何か意味があったのか。
留辺蘂への転勤打診に応じていたら、メイは僕を受け容れてくれただろうか。
何故、一緒になれないなんて言ったんだ。何故。
知りたいことは沢山あった。訊きたいことも山ほどあった。
何一つ知らされないまま、たくさんの想いを宙に浮かべたまま、誰に知られることもなく潰えてしまうしかないのか。
ずっと訊きたかった、何故って。

 

「メイ。 なんで」そう言った時、メイの身体がゆらりと動いた。その表情に影が差し、瞳は微妙に揺れて焦点が結ばれなくなっている。

来てくれなかった、の言葉を呑み込んだまま僕は声を出せなくなった。

メイの唇が『ごめんね』と動くと、その目に溜まっていた涙が膨らみ始め、口を押えてうつむいた拍子にリノリウムの床にぽたぽたと落ちていった。

僕が何かを感じる前に両手が勝手に動いた。メイの頬を包むようにして上を向かせ、親指で涙を拭っていた。

「泣かないで」僕を見つめるメイの瞳はぐしゃぐしゃだ。「やっと逢えたんだよ」

拭っても拭っても涙は止まらなかった。

「哀しい顔しないで」濡れた親指で眉根に寄ったしわを解く。「ほら、眉が八の字になってる」

無理にでも笑顔を作ろうとするメイの努力は実らなかった。笑顔はすぐに崩れてメイの口から嗚咽が漏れそうになる。僕はメイの頭を抱え込んだ。僕の作業服の胸に顔を埋めたメイは、声が漏れないように口も押し当てている。小刻みに震えるメイの背中を僕は長い間さすっていた。

メイの背中をさする僕の手に冷たいものが当たった。見ればメイの作業服の背中にポツポツと染みができている。僕の顎から知らぬ間に落ちているものがあった。

こんな所で、と思う。情けない姿を見せてしまうね。でも勘弁してくれないか。今日だけだから、今日だけでいいから。

辛いことも悲しいこともメイの涙ならきっと洗い流せる。だから今は何も考えずに感情に身を任せて。僕の手がメイを受け留めている限りここは安全だ。無防備な心のままメイを委ねて欲しい。僕がメイのバリアになる。

《夢かもしれない。ほんの刹那、頭の隅っこに浮かんで消える。いいさ、それでも。夢なら覚めなければいいのだ。》

 

僕は収納庫の側面に腰から寄り掛かる姿勢になって、君をきつく抱きしめる。肩から背中、腰、さらにその下まで両手でまさぐるように確かめる。柔らかさの奥から跳ね返してくる、引きしまった身体の感触が脳幹に直接響く。

そのまま座り込みメイを横抱きするように重なり合うと、リノリウムの床は冷りとしていた。

メイが欲しい。涙が溢れる。もう止められなかった。

「ごめんね」メイの消え入りそうな声がした。

「いいんだよ、もう」僕の声も濁りがちだ。

「違うの、お婆ちゃんが・・・」

そう言って僕を見つめるメイの目は苦し気だ。もう十分だよメイ、もう自分を責めないで。ずっと訊きたかったなんて、もう言わないから。

「分かった、もういい、もういいんだよ」

 

何か言おうとしている君の口を、僕は自分の唇で塞いだ。塩辛い味がした。なおも話そうとして動いた君の舌が、僕の舌に絡まってくる。僕は君の言葉を呑み込むように夢中で吸い込んだ。

『いいんだ、もう終わったんだ。もう話さないでいい。笑って話せるその時が来たら、たっぷりと聞かせてくれればいい。物事の本質は日常の中に滲み出る。僕たちはそれを分かち合おう』

言葉ではなく、抱き締めた腕と絡めた足でそう呟いた。

塩辛さは、しあわせ、だったんだと気付いた。

 

僕たちは互いの存在を確かめ合った。手と足で、胸で、ほほで、くちびるで、歯で、舌で。もうメイは何も話そうとはしなかった。

長い年月で乾いてしまった心を潤すように、僕たちは互いを貪った。そうしないと死んでしまうかのように互いの存在を貪っていた。

 

どれくらいの時間、そうしていただろう。

周りにいた人たちの姿は見えなくなっていた。

作業スペースにあった書庫やテーブル、椅子が消え、通路両側に並んでいた机やキャビネットや様々な機器が消え、機械室や建物も消えていた。

最後まで残っていた僕たちが運んだ収納庫は半透明になって今にも消えて無くなりそうだ。

メイと僕の絡み合った二つの身体があるだけになった。このまますべてが終わればいい。そう思った。

 

◇◆◇

 

座った姿勢で腿に置いた自分の手に目を落とし、掌を上に返す。この手の中にあるもののことを考え、また同じ掌から零れ落ちたもののことを考える。

どちらの道を行けば良かったなど、誰にもわからない。生きるって、そういうものなのだ。

 

言葉どころか声にすらならなかった想いを永遠に封じて、互いの胸の奥底深く沈めておきたい。