あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

千歳空港

ズシンと響く鈍い衝撃と共に機体が軋む。直後に翼のフラップが一斉に立ち上がると逆噴射の大きな唸りが機内に満ちた。羽田発の全日空トライスターはほぼ定刻に千歳空港に着陸した。

タッチダウン

胸の裡で呟いてみる。滑走を始めた機体は絶え間ない振動に晒され、座席も頭上の荷物棚も音を立てて小刻みに揺れている。存外に滑らかではない滑走路の現実を全身で受け留めていると、これから始まるあれやこれやが順繰りに巡ってきて、轟音も振動も次第に意識の外に追い出されていった。

 

今日は君のご両親に会うことになっていて、これが初対面になる。

この日に向けての特段の準備やら段取りなどはやらないと決めていた。心構えだけ持って正面からぶつかる覚悟でいる。長い付き合いになるのだから、素のままの自分を曝け出して受け留めてもらうしかないだろう。形式ばったセレモニーは苦手だし小細工なんて出来ないからね。二人の事を認めてもらうのに少し時間はかかるかもしれないけれど、僕とメイと家族との間になんの秘密もわだかまりも挟みたくないんだ。それでいいよね、メイ。

 

飛び去るようにして一旦視界から消えたターミナルビルは、誇らし気な姿で再び現れて次第に大きくなる。

『空港まで迎えに行くよ』と言っていたメイが、あの建物のどこかで待っている。見える訳がないと分かっていても、次第に大きくなる窓やデッキに目を凝らしてしまうのを止めることができない。

「着陸したぞメイ。そこから見えるか?」

ベルト着用のサインが消え到着のアナウンスが始まると機内が一斉に騒がしくなる。動き始めた人々の目的は旅行や帰省やビジネスなど様々でも、空路北の大地に降り立った高揚感で皆一様に晴れやかだ。

《・・また、千歳の上空は爽やかな好天に恵まれ・・》着陸前に流れた機長アナウンス通りに溢れる光は窓際を明るく染め、機内の華やいだ雰囲気に一層の効果をもたらしている。それは搭乗者全員に今日一日の幸運を期待させるに充分だった。

『メイ、僕たちは大丈夫だ』

勝手な思い込みであったとしても僕には吉兆に思える。今はそれが嬉しい。

僕は確信を抱いて勢いよく立ち上がり、荷物棚のバッグを取り出した。

 

短いボーディング・ブリッジを抜けて到着ゲート方向へ進むと、そこはオフィスビルの廊下と間違えそうな素っ気ない通路になっている。雰囲気に気圧されるのか誰もが無口になり、何故か急ぎ足でひたすらゲートを目指す。

それにしてもゲートまでの通路は何故こんなにも見通しが悪いのだろう。到着ロビーの様子はさっぱりつかめない。無言の集団に混じって黙々と進んでいると、先の見えない通路が異様に長く思われ、言いようのない感覚がジワリと染みだしてくる。

武者震い、かな。

自分の心理を推し量る程度の冷静さは保てているらしく、肚の中心はシンと静まって心地よい緊張感が漲っていた。

 

何回か角を曲がるとようやく広めの空間が見えてくる。その向こうの出口と書かれた表示の下で、大きなガラス製のスライドドアが開いていた。

ドアの向こう側で出迎えの人たちが大きな輪になってこちらを覗いている。メイを探すようかなとの危惧は無用だった。大勢の輪の中にそこだけスポットライトが当たっているように明るく見える場所があった。僕の視線はそこに吸い寄せられて動かなくなる。僕がメイを見つけるのと、メイが僕を見つけるのは同時だった。顔がほころんでしまうのを止められない。小さく右手を上げるとメイも手を上げる。これ以上にない最高の笑顔だ。

緊張も昂ぶりも瞬時に溶融させるに十分な笑みは、あらかじめ祝福が定められているような心地にさせる。並んでいるお父さんも優しそうな笑みを浮かべていて、僕はそこにある種のメッセージを受け取った気がした。

 

「初めまして・・」、「やあ、いらっしゃい・・」

空港ロビーでの挨拶は初対面といえども簡素にならざるを得ない。早速お母さんの待っている家に向かうことになった。

 

ジーンズにスニーカーを履いたメイは、淡い色合いのTシャツの上に直線的な幾何学模様を大胆にあしらった薄手のジャンパーを羽織っている。新鮮な驚きを覚えた僕はその姿に見入ってしまい、改めてメイの普段着姿を見るのは初めてだったと気付いた。シンプルでラフなのに人を魅了するその立ち姿は、一言でいえば "雰囲気を持った女性" になるのだろう。

「どしたの?」

君の声が聞こえて我に返る。

「ああ、ゴメン」束の間、空港にいることを忘れそうになっていた。お父さんはすでに前を歩いている。「行こうか」と言った声には、しっかり見られた気恥ずかしさが少し残っていた。

 

並んで歩き出しながら、今日はありがとう、と言ったメイは、僕の左腕を両手で抱えるようにして「お疲れ様」と見上げてきた。

幸せを絵に描いたような笑顔を間近から向けられて、無頓着でいられる男なんているだろうか。僕は肩先に寄せている君の頬に向けて控えめな kiss を送る。ここが空港でなければ、なんて考えながら。

「僕こそ、ありがとう。こっちにはいつ帰ったの?」

「うん、昨日」

「昨日の今日か」北見からだと結構な時間が掛かるよね。僕はやはりメイのことが気になる。「メイこそ疲れたでしょ」

「大丈夫よ、慣れているもの」半分照れたように言いながら僕を見返したメイは、ふいに怪訝な表情に変わって少し身体を引いた。「え? なに?」

訊かれた僕は何のことだか分からない。

「なにって何が?」

「だって、そんな目で・・」

どうやら僕の視線はメイの服装を上から下へ何回か往復したらしい。

「あ、うん、なんだろう。メイのその服装、なんだか新鮮で」

ああこれね、そう言ったメイは自身の服装に目を遣る。

「普段着なんだ。そっか、こういう服って初めてだったね」

「うん、北見ではいつも作業服だったし」

「そうそう、その後に会うときはいつも外出着だったもね」

「それからその服装がね」僕はさっきから感じていることを言わずにいられない。「新鮮ってだけじゃなくて、よく似合ってる。シンプルで素敵だなって思う」

「そう? ありがとう」

「センスなのか着こなしなのか、たぶん両方なんだと思う。表現力がなくてうまいこと言えないけど、好きだな、そういうの」

「褒め過ぎじゃない?」と言いながらも君は素直に嬉しそうで「でも良かったわ、ありがとう」と顔を寄せてきた。

「今日はね、身支度をさぼっちゃったんだ」

「ん??」

意味が解らず、頭の上に疑問符がいっぱい並ぶ。

僕の戸惑いを目にしたメイはさらに顔を近づけ、悪戯に成功した子供の目をして打ち明け話のようにそっと囁いた。

「ブラもしてこなかったし」

「?!!」

世界が止まった気がした。

いや違う。僕は動けるしメイは目の前にいる。ざわめいていた到着ロビー前が、一瞬で色褪せ遠退いたのだ。すべてから隔離された場所に僕たちは二人きりで立っている。

メイ、と呟いた僕は荷物なんか全部放り出して思いっ切り抱き締めていた。きつく、もっときつく・・。

 

妄想している自分に気付いたとき時間がゆっくりと動き出した。遠くからざわめきが戻ってきて空港のロビーを人々が行き交い始める。

大きく息を吸い、ゆっくり吐き出す。

どうして呉れよう、って思う。腰に手をまわして抱き寄せたいけれど、お父さんは僕たちを置いて少し先を歩いている。この状況ではちょっと無理だよな、と考え直して先延ばしすることにした。それにしてもドキリとすることをサラリと言ってくれる・・。

コホンと一つ咳払いをする。

「ねぇメイ」

「なあに?」

「そんなこと、ほかの人に言っちゃダメだよ」

「え? なにを?」

何をって、本気で気付いてないらしい。

「その、ブラがどうとか・・」

君はそんなの気にしないのよって顔で平然としたものだ。

「大丈夫、あなただからよ、話したのは」

「ホントに? 絶対だよ」

「ぜったいですよ」と言ってから何かに気付いたらく、ああでも、と付け足した。「女の子同士なら普通に話してることっしょ」

女子の会話ってそういうものなのか?

何となく腑に落ちないけどメイが言うんだから「それは仕方ないとしても。 男どもの前では言わないようにね」

「はい、言いません」

君が嬉しそうに断言するから、僕もつい笑顔になってしまう。

「うん、素直で良い子だ」

とは言ってみたものの、危ねえなあってのが僕の感触だった。こういうことに関しては案外ポカをしそうだよね、これまでの観測結果に照らしてみても。でもそれが君の持ち味だし許されるんだろうな君の場合は。そしてそれは君の魅力でもあるし、そんな君のことが大好きなんだよね困ったことに。

 

空港ビルの出入り口のところでお父さんがこちらを振り向き、先に行ってるぞ、と合図してきた。駐車場を指さしているのを見て君が、オッケー、って合図を返す。

ドッキリがあったせいなのか、ゆっくりした足取りになっていたらしい。

ふたり顔を見合わせて、ちょっと急ごう、ってことになった。

急ぎ足で歩きながら僕は先ほどのことを思い返す ―― あんな言葉、僕以外の誰にも言っちゃいけないよ ―― 煮詰まる僕の心など知る由もなく、君はどこまでもあっけらかんと楽しそうだ。

本気で歩きに集中しないとお父さんを見失いそうになる。積もる話は一時棚上げにするようだ。時々顔を見合わせ意味もなく笑顔になる。小走りになっても腕はつないだままだ。

眩しい空が僕たちを見下ろしている。

エールをありがとう。ここから先は自分の力が試される。僕は空に向かって感謝の黙礼を返した。

 

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。