あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

素顔のままで

 

お店のカウンターの後ろ側にキッチンがあって、その右端に4人が座れる四角いテーブルが置いてある。朝食の片付けも終わって少しホッとした時間だった。お父さんは所用で出かけ、残った3人は食後のお茶を楽しみながらの雑談に花を咲かせていた。お母さんと僕はテーブルに着き、君は湯飲みを持ってシンクに寄り掛かっている。

 

お母さんがこれまでの雑談とは異なる口調で僕の方を見て、あのね、と切り出した。

「女の人は化粧をするでしょう」

「あ、はい」

僕も釣られて少し改まった口調になり、背筋も心持ち伸ばした。

「化粧は寝る前に落としてしまうけれど、そうした化粧とは別にね」

「はい・・」何の話が始まるのか見当がつかず、煙に巻かれそうだ。

テーブルに置いた湯飲みを両手で包むようにして見つめながら、お母さんは僕の混乱をよそに話を進める。

「女の人の肌は、基礎的なお手入れがとっても大切なの」

あ、と思った。僕の記憶回路にフラグが立つ。"肌" と "手入れ" の2つの単語からあの日の出来事が連想されたからだ。

「・・はい、解ります」

返事をしながら確かめるようにメイの方を向くと、メイもこちらを見ていた。君もあの日のことを思い出しているようだ。

あれは2年くらい前になるよね、旭川で会ったときかもしれない。

 

 

君は鏡の前で肌の手入れをしている。
一日の終わりの日課を、僕は斜め後ろから眺めている。
鏡の中の自分と真剣に対峙している君の仕草は、僕の心に安らかな時を与えて飽きることがない。
「折角お風呂に入ったのに、何かつけるの?」
「ううん、手入れだけよ」
僕の問い掛けに応えた君は、また己の世界へ戻って行く。

風呂上がりの微かに上気した君は、ひたすら純粋に《美しい》。
芸術家たちが挙って女性を題材にするのはこの美しさ故だろう。
その刹那々々の美しさを永遠に留めておきたい衝動なのだ。

化粧を落とした君は 例えようもなく美しい
透明感のある涼やかさをまとった美しさを なんと表現しよう
生命の輝きが透けて見える君の素肌に 僕は抗うことができない
確かめるように両手で包み 耳元にそっと囁いていた
「素顔のままでいて」
僕が愛しているのは そのままの君 メイそのものだから

  

 

「そう、それなら」

お母さんの声がして僕たちはお母さんに引き戻される。

「・・良かったわ」

お母さんは少しホッとしたように言って、もう一度僕を見る。

「したらメイにも、肌の手入れをさせてあげて下さいね」

僕に反対する理由などない。何故だか少しドギマギした返事になる。

「えっ、ええ、分かりました」

「あなただって、綺麗なメイの方がいいっしょ?」

お母さんは自信たっぷりな物言いになっていた。

「はい、勿論です!」僕も張り切って断言する。

「なら、お願いね」

お母さんは僕の、はい、という返事を確認すると湯呑を持って立ち上がり、

「後は、二人で話しなさい」と言ってシンクへ向かい、メイにも何か一言告げてキッチンを出て行った。

僕とメイは3メートルほど離れたまま目を合わせていた。メイは半ば呆気に取られていたように見える。二人だけ残されたことに意識が向くと、今の話を思い出したのか、照れ臭そうに肩をすくめた。

 

あの日のこと、お母さんに話したんだね。

 

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。