あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

あずましい

メイのお母さんへの挨拶を終えてようやく重い荷物が下ろせた。一仕事終えた感覚で不思議と心地よい疲労感に浸っている。ふたりで畳の上に足を投げ出して寛いでいると、ずっと前からこうして暮らしていたような錯覚に陥りそうになる。メイが高校卒業まで使っていたこの部屋は、久しぶりに戻ったご主人様に活気づいて華やかな空気に包まれているようだ。

 

ゴロリと寝転がって大の字になり、部屋の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。華やかさが身体の隅々まで行き渡るのを待ってから寝返りを打って腹這いになる。

泳ぐように両手を動かして畳をさすりながら

「畳って気持ちいいねぇ」しみじみ言えば、メイは改めて部屋を見まわし、

「自分の家って、やっぱり落ち着くな」と懐かしそうにしている。

面白いことを思い付いた。

「ここで寝起きしてたんだよね」と言うと畳に鼻をくっつけて息を吸い込み、「あれ?」と腑に落ちない様子を作ってから、残念そうな素振りで呟いてみせた。「違うか・・」

メイは怪訝な顔で眺めてから疑問を呈する。

「え、なに? 何してるの?」

僕は勿体を付けてから教えてあげた。

「メイのね、高校生時代の残り香を分析してるんだ」

「??」メイは意味が分からないって顔をしていたけど、僕が生真面目な顔を続けているのを見て合点がいったようだ。冗談なんだって。

「匂う訳ないよ、何年前だと思ってるの?」

「だって5年前か、6年前だろ?」

「残念ね、現役だとしても匂いなんかしないわよ」メイはにべもなく言下に否定する。

「ああ、夢が壊れちまう」

「バカ言ってないの」メイはテーブルのポットを手に取りながら言った。「それよか、もう一杯お茶飲む?」冗談は終わりらしい。

「うん、貰う」

起き上がりながら湯呑を覗くと飲みかけが残っている。冷めたお茶を胃の底に放り込み、空になった湯呑を差し出した。

「飲まなくてもいいのよ」止める間もなかったメイは半ば呆れ顔だ。「冷たいのに」

手にした湯呑を自分の湯吞の横に並べると、その手で急須を持ち上げもう一方の手を蓋に添えて傾ける。僕の湯呑へ、メイの湯呑へ、僕の湯呑へ。

目の前で繰り返される一連の所作に、日常がそっと忍ばせている美しさを見付けたような気がした。無駄のない動きとそこはかとなく漂う艶めかしさに、僕は目を逸らすことが出来なくなる。注がれるお茶の立てる音までが心地よい。

うっとり気分で眺める僕の様子に、メイは含み笑いになり、あのさ、と言った。

思考回路までメイの手に釘付けになっていた僕は、生返事を漏らしていた。

「んん?」

「手紙届かなかった?」

どうしたの?とか、そんなに見詰めないのよ、とか、そんな話を想定していた僕はメイの言葉を受け損ねてしまう。

ええっと、手紙って言ったか? 手紙がどうしたって? 言葉を解釈できるようになるまで、瞬きふたつ分の間が空いた。ようやく僕の目はメイの視線を捉える。

「手紙って、なんの?」

「あなたに出した手紙よ」僕の前に湯呑を置きながらメイは「私が」と言った。

僕は置かれた湯呑を引き寄せながら反芻する。メイが手紙を? 僕に?

途端に目の前が開ける。

「手紙くれたの!?」嬉しさで弾けそうな声になった。けど、記憶にない。ぜんぜん無い。嬉しさは立ち所に不安に変わる。「だけど見てない、来てないよ。いつの事、それ」

「だいぶ前になるかな、誕生日にバラを贈ってくれるより前ね」

「ん~。。」熱いお茶を啜り、天井の縁に視線を漂わせながら記憶をたどる。まったく覚えがない。第一、メイの手紙を忘れる訳がない。「届いてないよ」と言いながら心配になる。「届いてないと思う、見てないし」

「やっぱりね」何故だかメイは得心してるようだ。「そうじゃないかなって思ってたのよ」

「やっぱりって?」

「あなたの手紙に何の変化も無かったから」

「?」僕はキツネに摘ままれた顔をしたようだ。

「手紙を読んだなら、何かしらの反応や返事があるでしょ」メイは湯呑を両手で包むようにしている。「でも、あなたから届く手紙にはそうした形跡が見えなかったから。それで、私の手紙は届いてないんだなって思ってたの」

「ちょっと待って」考えられない。投函した手紙が届かないなんて。「メイは手紙をポストに入れたんでしょ」

「そうよ」

「それなのに、配達されないって、おかしくない?」

「でも、実際に届かなかったでしょ?」

「そうだけど」納得できない。「だとしたら、その手紙は何処にあるんだ」

「紛失したのか、行方不明なのかしらね」

「なんだか」腹立たしいし「悔しいなあ、メイの手紙なのに」

「こっちでは時々あるのよ、そういう事」

「時々って・・」メイは涼しい顔してるけど、こんな事、度々あっちゃ堪らない。歯痒い苛立ちを覚えて、その矛先に苦慮する。メイのせいではないのだ。「何だか、すっごく大切なものを失くしちゃった気分だなあ」

「でも、こうして逢えてるんだから。いいじゃない」

「残念だけでは収まらないよ。だってメイの手紙だよ」

「たまたま私のだっただけ、それだけよ」

そうは言っても、僕にとっては待ち焦がれていた宝物だよ。

「ねえ」僕は懇願する眼差しをメイに向けた。

「なあに」メイの声に警戒の色が混じる。

「もう一度書いてくれないかな。同じ内容でいいから」

「え? 同じ手紙を?」冗談でしょ、が言外に滲んでいる。

「うん」

僕は声に期待を込めたが、メイの返答には、あり得ない、って心情があった。

「いやよ今更」

「頼む」拝むように手を合わせる。「メイの手紙を読みたい」

「今の私たちには要らないものよ」

「そんなつれない」こと言わないで「何とかお願い」僕は拝み倒しにかかる。

「それに、恥ずかしいでしょ」

恥ずかしい、か。考えが至らなかった。けれどそう言われると、余計に知りたくなるのも人情ってものだよ。

「そしたらさ、恥ずかしさが薄れた頃とか忘れた頃でいいから」

「ずううっと先になるよ、きっと。それにやっぱり手紙は抵抗があるな」

「話だけでもいい。メイが話してくれたら、胸のずっと奥に大切に仕舞って置くから」

「大袈裟ね。それほど大層なものじゃないわ」

「それでもいいんだ」僕はきっと忘れない。

 

少しだけ温度を下げたお茶で、失った手紙の無念を丸飲みにする。それでも消えない理不尽さに、お茶の表面に揺蕩う湯気を眺めていると、畳の上で腹這いになったことを思い出した。

「ねえ、メイってどんな高校生だったの?」と訊いていた。

メイは答えを探すように、そうねぇ、と少し上を向いた。

「普通の高校生だったよ」と答えた後「私のことより、あなたはどんな高校生だったわけ?」と問い掛けを返してきた。

「訊いてるのは僕だよ」

「ここは私の家でしょ、訪ねてきたあなたから話すのが礼儀じゃない?」

なるほど、と思ってしまった。上手いこと切り替えされた気がしないでもないけれど、いずれ双方とも知っておくべき事柄だし、どちらが先でも同じことだ。

「工業高校の電気科で男子校だった」

「男子だけ? 想像できない」

「全員丸刈りでね、人生初だったから抵抗あったけど、慣れれば楽なんだわ、これ」

「皆んなクリクリ坊主なの? なんだか可愛いね」

「僕はね、大人しかったな。ちょっと頑固だったけど」

「大人しくて頑固?」

「うん、ちょっとだけね。それは就職してからも同じで、変わったのは今の職種になってからだね。大人しくなくなってこんな風になりました」

「こんな風にね」メイはニヤッとしてから訊いた。「初めから今の仕事じゃなかったの?」

「あれ? 言ってなかった? 機械の保守を希望したんだけど配属されたのは料金係だった」

「へえ、料金係」

「ひたすらお客さんの使用料を算盤で計算して、請求書を発行する仕事だった」

「算盤、使ったことあったの?」

「いや初めてだよ。直ぐに慣れたけどね」

「ふ~ん」

「その内に加算機やら電卓が登場してきてね。早速使い始めてブラインドタッチで計算してたら、それを見ていた会計係に呼ばれて」

「会計って会社の?」

「うん、それで会計をやってる時に所長が僕の希望を耳にして、所長室が目の前で毎日顔を合わせてたからね、それで今の職種に変えてくれたんだ」

「へえ、色々あったんだね」

「ええと、高校時代をだいぶ端折ったかな」

「うんまあ、ボチボチでいいんじゃない」

「そしたら今度はメイの番だよ」

「う~ん、私の高校はね」

メイが話し始めたところで襖の外でノックの音がした。

 

ちょっと買い物してくるから、とメイのお母さんが僕たちのいる部屋に顔を出した。

「あずましくしてて」

メイは「うん」って頷いたけど、僕は何と返事をすれば良いのか迷ってしまった。

「え?、えっと・・」

聞いたような言葉だったけれど少し違うような・・。結局、意味が解らずどう反応してよいのかも判らない。

あずましく??
北見に出張中だった頃、皆がボヤキながら「ああ、あずましくねぇ」と言っているのを何度か聞いたことがある。その使われ方から “あずましくない” は “忙(せわ)しない” って意味だろうと見当をつけていた。けれど “あずましく” とか “あずましい” は一度も耳にしたことがない。
大急ぎで意味を探ろうと僕の頭はフル回転する。“忙(せわ)しい” は “忙(せわ)しない” と同じ意味あいになる。ならば “あずましく” は “あずましくない” と同じになるだろうから、この場合は “忙しくしててね” ってことになる? いやいや、それでは日本語としておかしくないか?
"あずましく" って何だ???

僕は返答に窮してキョトンとしていたらしい。

それを見ていたメイが助け舟を出してくれる。

「あずましくが分からないって」

「ああ、そうか」お母さんは、そうよねという顔でニッコリして「あずましくっていうのはね、ゆっくりしててねって意味よ」と説明してから言い直した。

「じゃ行ってくるわね、ゆっくりしててね」

「あ、有り難うございます。行ってらっしゃい」

北海道に方言はあまり無いって聞いていたけど、結構ありそうだよね。

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。