まだ夕暮れの明るさが残る街を散策することにした。帯広の中心部からは離れているので、繁華街のように気の利いたレストランなどは期待できない。ゆっくり食事のできる店でもあればラッキー、といった程度に考えていた。
ちょっと甘く見ていたようだ。食事のできる店などほとんど見当たらない。20分ほど歩いた頃、ようやくビルの2階にスナックを見つけた。虚勢を張ってない外観がどことなく安心感を与えてくれる。僕は店を見上げながら同意を得るように尋ねた。
「スナックでもいい?」
「え? スナック? いいけど・・」君はちょっと不安を隠せないでいる。
「何となくだけど、ゆっくり出来そうな雰囲気を感じない?」
「私、旅先で知らないスナックって、入ったことないから」
「うん、僕もスナックは初めてだ」
「大丈夫なの?」
「ダメだったらすぐ出ることにしよう」
◇◆◇
店内は外観の印象そのままだった。カウンターの中から上品な笑顔のママが「いらっしゃい」と僕たちを迎え入れてくれる。Uの字形のカウンターがあるのみでテーブル席はない。早い時間帯なので客の数は少なく、落ち着ける雰囲気だった。
有難いことにロバート・ブラウンがあった。ちょっと早いかな、とは思ったけど水割りを頼んだ。君も1杯だけという条件で僕に付き合ってくれる。
「ふたりでお酒を飲むのは初めてかな」グラスを合わせながら思い出すように訊いていた。
「うん、あまり飲まないから」そう言った君は何かを思い出した顔になる。「あ、この間ワインを飲んだかな」
ワイン? そうか、たしかあれは、
「河口湖の帰り? あの時は、ほとんど僕が飲んじゃったからなあ」僕はついでにウィスキーのことも思い出した。「旭川でもメイは飲んだうちに入らないし」
「そだね」君も納得って顔になる。「したら、北見以来になるんだわ。あの時は皆んなが一緒だったけど」
「そうだったな」懐かしいだけでは済まない、時間の累積が二人の間に流れ込んでくる。「あれから2年かあ・・」溜息ともつかないものが漏れる。
「そう、あれから2年。色々あったもね」
「うん、いろいろあった」言いながらメニューの中に "じゃがバター" があるのを見つけた。
「ねえ、じゃがバター食べない?」
「好きなの?」
「これね、尾岱沼のユーホステルで昼飯代わりに出してくれたことがあって。それでファンになっちゃった」
「そうなの。私も久し振りだな」
二人分を頼むとママが、
「折角だからレンジで調理してあげる。時間、かかるけどいい?」
と嬉しい提案をしてくれた。もちろん僕たちに異存はない。
「かしこまりました」と応えたママは「ホクホクして絶対おいしいわよ。ちょっと待っててね」と素敵な笑顔になった。
僕が3杯目のお代わりを頼むころ君のグラスも空いてきたようだ。君の頬は微かなピンクに染まり目は心持ちトロンとしている。
後回しにしてあった話が、頭の隅に引っ掛かっている。
「車の中での話だけど」
「え? ああ、"わかって下さい" の話ね」
「そう、それ」
「それで、どんな話?」
「えっと・・」いきなり躓く。漠然とした想いがあるだけで、何の用意もなかった。それでも話そうと決めたのは、話の展開の過程で見えてくるものがあると思えたからだ。特に今夜はメイが目の前に居る。何かが起こっても不思議ではない。
メイは歓びであり希望だ。君の存在そのものが僕を絶対の安心感で包み込む。メイが僕に与えてくれる穏やかさの正体を伝えよう。胸奥から湧いてくる思いを、心の赴くまま少しずつ言葉にすれば、きっと大丈夫。さあ、
「メイのね、好きなところがたくさんある」転がり出た言葉に自分で驚き、繋ぎが手探りになる。「何から話していいか分からないくらい」
「??・・」君の目が少し丸くなる。直情径行に過ぎたようだ。
入り方を間違えた時の座りの悪さを思い出す。けれどこのまま進めよう。今夜は大丈夫なのだ。カウンターに肘をつき両手の指を組み合わせて、敢えて君を見ないようにした。
「ハッキリしたその目も、澄ましている小さな鼻も、しなやかに動く唇も、バランスのいい顔立ちも好きだし」
「・・・」
「細い首筋も、小さな肩も、しなやかな腕も、スッキリした脚も好きだな」
「・・・」
君は "どこまで行くのかしら" って顔になってる。だから、
「それから」と君の方に顔を向け、もう少し先へ進むことにする。「僕の腕に柔らかく馴染む腰も、掌にちょうどよく納まる胸も」
「ちょっと」メイの目はいい加減にしなさい、と言ってるようだ。
大丈夫だよ、周りには聞こえない。僕はなだめるかのように君の目を見つめ、両手をそっと下に向けた。
「服の選び方や着こなしも、仕事や普段の話し方も、その声も、少し天然な所も」
「天然? 私が?」君は異議があるらしい。
構わずに続けよう、ここで止めたら行方不明になってしまう。
「髪型も、華奢ではなくてスリムな体形も、ぜーんぶ、好きだ」
全部好きだと言っておきながら、伝え切れないもどかしさを抱く。話しながらずっと胸に引っ掛かっていたのは、こんな事じゃないんだ、という思いだった。大切で肝心な何かが欠けている。奇麗にまとめようなんて下心を持つから、却って核心に近づけないのかもしれない。ならば裸になろう。飾りの付いた言葉は要らない。
「それでね」
僕は一旦言葉を切り、椅子の上で90度回転してメイに正対した。
「いまの話は全部、メイの外側の事ばかりだったよね」
「そう、だったね」メイは束の間反芻していた。
「でもそこには、メイの人間性が見えている筈で、外見は心の写し鏡なんだと思う」
「・・」
「僕はそこから、メイの性質や考え方や感情の動きといった内面的なことを感じ取っていて、それをとても好ましいと本能的に判断したんだ。人間って咄嗟にそうしたことを嗅ぎ分けるよね。皮膚感覚って言うのかな」
「あるわね、そういうこと」
「悲しいことに人間は、心の細部までは分からない。けれどその人の内面的なもの、心の在り様って、個性や顔付きや仕草として外側に現れるものだと思う。心の状態って、隠そうとしても滲み出てしまうんじゃないかな」
「そうね。私もそう感じるところはあるわ」
「たぶん僕は、メイの事をあまり知らない。だから目下研修中な訳だけど。それでもメイの話し方や言葉の選び方なんかも、僕は好きだし」ふと、以前メイが話していた言葉を思い出し、それにね、と言っていた。
「それに?」
「前にさ、メイは職場内で、オニメイって陰口を言われてるって話してたよね」
「あれ? 話したっけ? よく覚えてるわね」
憶えてるとも。
「それは感情や人間関係に左右されずに、論理的な考え方をするからだと思うよ。そしてその考えを誰に憚ることなく口に出してるんじゃない。だから煙たがられるし陰口も言われてしまう」
「だぶん、そうね」
「メイのそうした、ちょっときつい、って思われてそうなところも、僕はとっても愛しくて」
「・・」メイはどんな顔をしたらいいのか困ってるようだ。
「僕はね、逢うたびに発見しているよ、メイの好きなところを」
そこまで話してから全身で君の目を見つめた。
「う、うん、ありがと」君は明らかに戸惑い気味だ。
この先は困惑させてしまうかも、と考えたものの止められなかった。
「それで、例えばね。仔犬や子猫が駆け寄ってきたら思わず抱き上げて鼻をくっつけたり頬擦りしたくなるでしょ。それって理屈ではなくて無条件にやってしまうよね」
「うん・・」
「それは多分本能に近いと思うんだ。でも、成長してから誰かを好ましく思うとか好きになるっていう感情は本能だけではなくて、一人ひとりの成長の過程で身に付いた習慣とか、知識とか、美意識が大きく関わってるんじゃないかな。それが背景にあって、その人なりの考え方や個性が生じた結果なんだと思う」
「・・・」僕の顔にあった君の視線が、自分の両手で包み込んでいるグラスへ移動して止まる。
君が静かにうなずくのを見て僕は続けた。
「本能じゃない部分って成長過程で形成されたものだから、何を経験するかによって変わってしまう可能性もあるけれど、核心部分は持って生まれたものとして最後まで残り続けるんじゃないかな。その人の人柄として」
「・・ん」小さくうなずいて僕に振り向く君の真剣な眼差しが僕の胸にチクリと刺さる。その痛みは少しも不快ではなく、愁いを帯びた悦びのようで不思議な感覚だった。
「僕がメイに抱いている感覚は、その核心から出ている声みたいなもので、人となりを形成している殻のもっと深いところでメイの核心部分と呼応しあっている、ああちょっと違うかな、共鳴って言った方が近いかな、そんな風に感じている。だから・・」
僕はそこで言葉を止めて君の反応を見ていた。少し長くなった沈黙に君は僕の顔を見て、そして続きを促す。
「だから?・・」
「だから、メイがメイである限り、僕の『メイが大好き』はずっと変わらない、変わりようがないんだ」
「・・・」
「日本語としておかしなところもあったかもしれないけど、"わかって欲しい" って思ってるのはそういうことなんだ」
「・・・」
君はじっと考えてるようだ。僕も敢えて口を利かない。無意識にシャットアウトしていた店内のざわめきが聞こえ始める。コルトレーンが流れていた。胸に滲み込むフレーズを感じながら、メイと肩を並べているこの瞬間(とき)をたまらなく愛しく思う。グラスの中の氷は溶けてなくなっていた。
しばらくしてから君はグラスを見つめて
「・・ありがとう」と言って僕を見た。
少し照れ臭い。
「ちょっと、理屈っぽかったね」
「ううん、大丈夫よ」
「時代や社会を超えたところで、ううん、どんな状況であっても僕はメイがずっと大好きなんだよ、心の底から」僕は何が言いたいのだろう。自分でも分からなくなっている。「でも、それだけじゃ言い足りなくて、言い表せないところが沢山あって、だから・・」
言葉が続かなかった。沈黙が降りてくる。やっぱり言葉で伝えるって限界があるんだと考え始めた時、君はポツリと言った。
「言いたいこと、ちゃんと伝わったよ」
瞬間、胸がきつくなる。どんな顔していいのか分からない。メイの言葉が沁み込んで次の動きを起こすまで瞬き3回分の時間が掛かった。
「うん・・」続く言葉を見つけられない。
届いて良かった。良かった、メイで。心底そう思えた。「ありがと」って言うのがやっとだった。
「よかった」
ホッとしてそう言ったとき、ママが何かを運んできた。
「お待ちどうさま」
熱々男爵の上部に大きく十文字の切込みを入れ、たっぷりのバターを乗せた "じゃがバター" がきた。バターの溶け込んだ湯気の香りは健康な食欲をそそる。
「当店特製の "じゃがバター" よ、おいしいわよ」
「わーっ!おいしそう!」二人でハモッてしまった。
ママはにっこりと
「特別よ」と笑って言った。「熱いから火傷しないようにね」
"アチッ" とか "アッツ" などと口走りながらつまみ始めた。確かに熱い。頬張ることを拒む熱さがいまいましいくらいに。
じゃがバターと格闘しながら君がポツリと呟く。
「ありがとう」
不意打ちを喰らって僕は君の言葉を受け損なう。
「ん??」
「さっきの話、嬉しかった」
予想もしなかった台詞にドギマギしながら、僕の心臓は有頂天になる。
「それは、僕も嬉しい。さっきは話しながら迷子になりそうで困ったなって思ってたりしたから」
「困った風には見えなかったわよ」
そうなの? それなら、もうちょっと追加しようかな、と悪戯心が目を覚ます。
「ホント言うと、好きなところはもっとあってね」
「え?」
「拗ねてる顔も好きだし、大きな欠伸で涙目になってるところも好きだな」
「そんなところは」じゃがバターを突つきながら君は言った。「見ないでよろしい」
あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。