定期便となった電話がこの日も同じように始まり、同じような終わりへ向かっていた。いつもと同じ景色がそこにあり、君の口調にも特段の変化は見られない。
「私、一緒になれないよ」
気負った様子も思いつめた響きもなく、日常会話然とした話しぶりに僕は何かを聞き逃したかと思った。
「え? 何?」
少し間があく。
「あのね・・」今度はゆっくりと、そしてハッキリと言った。「一緒にはなれないって言ったの」
「・・ぇ?」声が小さくなる。一瞬で世界が暗転する。上ずりそうな声を慌てて飲み込み、落ち着くのを待った。「・・冗談を言ってるの?」
「ううん」君の声にも少し緊張が混じる。「まじめに話してるわ」
「・・・」意味が分からない。どこを突けばこんな話が飛び出すのか、理解の範囲を超えている。
「ちょっと待って。良く解らないんだ」
僕の戸惑いを余所に君の言い分は明快だ。
「ごめんね。でも、真剣に考えて決めたことなの」
「決めた、って」誰が何を決めたんだ。「僕は何も聞いてないよ」
「相談もしなかったのは謝るわ。でも、引き留められるって分かってたから。だから・・」
「当り前だろ」強い口調になるのを抑えられない。「僕の気持ちは変わらないし、メイは僕の気持ちを解っていると思ってたよ」
「だからよ。だから相談できなかった」
2年前の悪夢がフィードバックする。呼吸が乱れそうになり、落ち着け、と言い聞かせながら息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
毎日の生活の中で君の心が少しずつ変わっていったとしても、僕にはそれを知る術がないんだよ。君の心の揺れは、容易ではない距離に阻まれて僕まで届かない。繊細で機微に触れる問題ならなおさらだろう。でもそれは、同時に僕に対する君の問題でもあるんだよ。
僕たちを隔てている物理的な距離が、大きな障壁であることは初めから承知していたはずだよね。頻繁に会えれば、微妙な心の在り処も互いの体温で感じ取ることができるさ。けれどそれは僕たちには不可能なんだよ。だから、互いに相手を信頼し尊重する気持ちを、人一倍強く持ち続けることが大切になるんじゃないのか ・・。
「一体どうしたんだ? 何があったんだ?」
「別に、何も・・。私が考えたことよ」
「誰かが反対してるとか、僕を嫌いになったとか、外に好きな人ができたとか、何かあるんじゃない?」
「そんなんじゃないよ」
「別れようって言ってるんだぞ、メイは」
「うん・・」
だめだ。鼓動が耳の奥を圧迫する。こめかみや唇が小刻みに震え、呼吸は細切れになる。気分が悪くなりそうだ。
「好きなのに別れるなんて、僕にはできない。メイは決めたって言ってるけど、そこに僕の気持ちなんて入ってないでしょ」
「・・・」
「これからのこと、二人で決めてきたよね。僕が30になる前に一緒になるってことや、メイが東京では暮らせないって言うから、留辺蘂への転勤願いも出した。僕はメイが大好きだし、大切に思ってて信頼もしてるからやってきたことだよ」
「・・・」
「そうしたこと。ぜーんぶ、無しにするの?」
「・・ごめんなさい」
「僕には、できない。そんなこと・・」
「でも、私・・」
そう言ったきりメイは黙ってしまった。
《でも私》の口調が意を決している様子を窺わせて心臓に冷たいものが走る。
僕の意識は握った受話器を通って遥か遠くまで飛んでいた。そこには北見に住む女性がいるはずだった。たしかメイという名の。その女性(ひと)はいま、どんな顔をしているのだろう。僕と同じに苦しみに耐えているのだろうか。
君の放った言葉が僕の顔を混乱と苦痛に歪ませている事実を、君は見ずに済ませている。この幽霊のような顔を見せたい。メイの表情がどうなのか知りたい。
君はいま遠く離れた安全圏にいて何を考えてる。この話を早く切り上げよう、電話を切ろう、終わりにしよう、と考えているのだろうか。僕はいまのそんな君を、何とかして引き留めよう、思い留まらせようとしている。僕は道化を演じているのだろうか。
君が毅然として放った《でも私》が重く覆い被さる。迷いのない君の言葉が僕の心を挫く。
電話は無音を送り続けている。
無言の状態が錯綜する思いに拍車をかけるばかりで、考えも感情も収拾がつかない。
長すぎる沈黙に根負けしたのは僕だった。
「ねえメイ。僕はメイの気持ちが分からないよ。僕たちは同じ方向を向いてるんだと思っていたけど、違ったのか?」
「それは、変わってないと思う」
君の返事に僕の混乱は大きくなるばかりだ。
「変わってないなら、何故こんな話が出てくる?」
「だから、そんなんじゃないんだって」
「なに訳の分からないことを言ってるんだよ。 同じ方向を向いているなら、これまで通り進めばいいはずだろ? なんで別の道を行こうとする」
「別の道って・・」君は慎重に言葉を選ぼうとして口ごもる。「あの、分かってもらえないかもしれないけど」一瞬の躊躇いがあった。「好き嫌いと、一緒になる話は別のことだと思うんだ」
「嫌いなやつとは初めから一緒にならないだろ」
強い口調で挟んだ言葉が、揚げ足取りのような格好になって君は少しムッとする。
「勿論そうだけど。好きだからって、必ず一緒になるわけじゃないでしょ」
「僕たちは一緒になるって約束したよね」
「そうよ。だからこうして謝ってるじゃない」
謝ればいいってもんじゃないだろう、大声で言ってしまいそうだ。
「メイは違うって言うけど、僕にはメイが変わってしまったとしか思えない。嫌いじゃないけど一緒にはなれないなんて、嫌いって言ってるようなもんだよ。電話で済ましちゃうほど、僕は軽いってことか?」言いながら墓穴を掘ってることは分かっていた。
「だから、そうじゃないって」
「だって、そういうふうに聞こえるじゃないか」
「・・あなたがそう思うなら、それでいいわ」
「・・・」ため息しか出なかった。
何を訊き何を話せば、この緊急事態を切り抜けられるのか見当もつかない。
「急な話で混乱しちゃって、何を話せばいいのか思い付きもしないけど、この話ここで決めなければいけないのか? 改めて話すことはできないか?」
「んん・・」君は困ったような声を出した。
「少し、考える時間をくれないか?」
「わたし」僅かな迷いが語気を弱くする。「それでも、一緒になれないよ」
君の言葉が頼りなげに聞こえる。助けたい守ってあげたい、不覚にもそう思ってしまった。乗っていたはずの船が突然消え失せ、溺れかけているのは僕だっていうのに。
君が決めたように僕も決めたい。僕たちは一緒になるって。今すぐにでも一緒に住むんだって。
好きならばそれだけで一緒になれるものと信じていた。僕が単純に君との暮らしを夢に描いていたころ、君は違うスケールで僕を見始めたのだろうか。
ふと浮かんだ考えが、嫌なことを気付かせてくれる。
僕が君への《好き》を募らせている頃、君が僕に抱く心境には綻びが出始めていたのかもしれない。君の心は自分でもそうとは気付かずに僕から離れ始めたんだ。次第に大きくなる亀裂は当然のように《一緒になれない》というところに帰結する。東京には住めないと言い出したことは、それらの伏線だったのだろうか。僕は君の変化に気付くこともなく勝手に浮かれていたことになるのか。
もう考えたくもなかった。
世間が僕を理解しなくても、君にだけは解っていて欲しかった。解らないまでも丸ごと受け容れてくれると思っていた。君一人が寄り添ってくれるなら、それだけで充分だった。たとえ世界中を敵に回しても構わないと思っていた。
終わるかもしれない。そう感じ始めていた。
心の真ん中にあった熱く揺るぎない存在が、傾きながら泥の中に沈んでゆく。絶対だと信じていたものが、余りに儚く脆いことを思い知る。心は簡単に折れる。まるで他人事のように見つめている自分がいた。
ふっ、と自嘲を含んだ吐息が漏れてしまった。
僕が何かを言ったと勘違いした君が聞き返す。
「え?」
口から出そうになった "ピエロだった" を寸前で思い留めた。そんなことが君の本意ではないことは分かっている。たとえ君のホントの気持ちを僕が理解できないとしても。
「いや、なんでもない・・」
「そう・・」
胸のずっと奥の方で何かが崩れ始める。あれほど張り詰めていた気持ちも、汲めども尽きなかった喜びも、みんな足元から揺らいでいる。世界の色が少しづつ褪せてゆく。
離れて行こうとしているメイに向かって僕は何も言えない。責めることも、なじることも、罵倒することも、叫ぶことも、怒ることさえも。
壊れ始めた自分を止めることができない。
「メイとは友達にはなれないよ。好きだという気持ちを隠したままの友達付き合いなんて、耐えられない」
「ええ、分かってるわ・・」
待って、ちょっと待って。僕が言いたいのはそんなんじゃない。僕は心の底からメイが好きだよ。僕の身体のどこでも裂いてみたらいいさ、メイへの愛が溢れ出すはずだよ。全身の細胞がメイを愛してるって叫んでる。だから、別れようなんて言わないで。それなのに違う言葉がこぼれ出てしまう。これはホントの僕じゃない。僕じゃないんだ。気付いて欲しい。気付いて欲しい・・。
「この電話を切ったら、もうそれきりだよ。僕たちがまた出会える偶然はもう起きない。だから、これが永遠の別れになる。二度と会えなくなる。分かってる?」
「うん・・」
違うんだメイ、今のは僕が言ったんじゃない、僕の本心じゃないんだ。伝えられない苦しさと切なさでおかしくなりそうだ。
これは夢だ。僕は悪い夢を見てるに過ぎない。明日目覚めればまたメイの声が聴ける。メイの囁きを僕のものにできる。
足掻きのような空想が現実の痛みを余計に増幅する。頭の中の叫び声が耳の奥に充満して他の音は何も聞こえない。苦しくて堪らない。
分かってるか、と訊きながら分かってないのは僕だった。
また会える。心の何処かにそんな偶然に対する淡い期待が燻ぶっていた。このまま終わる訳がない、とも思っていた。
電話はいつのまにか切れていた。
傍から見ればきっと放心状態だろう。口は半開きで身体は硬直している。鉱物と化した皮膚の内側で冷めた血液が異常な勢いで流れ、妙に冴えて目まぐるしい。
何が起こったのか理解はしていた。そう、終わったんだ。哀しくはなかった。寂しくもなかった。状況の把握ならできていた。簡単なことだ。
受話器は握ったままだった。
いつしか歌われなくなったラブソングにも、
始まりのトキメキや、ぎこちないながらも濃密な瞬間はあったのです。
できるならラブソングを歌い始めたあの頃から順を追ってご覧いただけたら・・ 。