あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

ダメージ

何かがおかしいと気付いてはいる。助けを求めて叫んでみても、干からびた喉から微かな空気が漏れるだけで声にならない。虚しく動き続ける口はまるで打ち上げられた魚だ。理不尽な状況と説明のつかない異様さは、とても現実とは思えない。これはきっと夢だ、夢に決まってる。

都合の良い憶測や望みを抱いたところで事態が好転する兆しも見つけられず、逃れる術を求めて足掻き続けるしかなかった。次第に強くなる息苦しさに追い詰められ、耐え切れなくなって身動きしたところで、ようやくぼんやりと目が覚める。早朝の薄明かりが雨戸の隙間から覗いていた。

「もう、朝か・・」落胆のうめきが漏れる。

ろくに眠れない日々が続き、朦朧とした意識が常態化している。追い打ちをかけるような寝覚めの悪い夢など願い下げだ。

ああっ、クソッ!

悪態をつき、これから始まる長く陰鬱な一日を呪ってやる。

温もりに舞い戻りたいが、これ以上の休暇は無理な相談だろう。せめて夜間勤務であれば幾ばくかの惰眠を貪れる。鉛の詰まった頭で前回の宿直日を無理やり思い出し、日数を指折り数えて今日の勤務を導き出す。

「ぅわ、日勤か」最悪な気分だ。

あと10分、いや5分でもいい。目を閉じてぼんやりできる時間を渇望しながら、無駄だということも分かっていた。あの日以来、自分を保つことがままならなくなっていたからだ。勝手に動き始める脳細胞が、メイと過ごした日々の記憶を呪いたくなるほど機敏に捜し出し、たちまち沢山の甘い思い出で寡占状態にしてしまうのだ。ご丁寧にも思い出の一つひとつを虚しさでコーティングし、精神的な落ち込みが最大限味わえるような細工まで施して。

何もしたくない。朝など、来なければいいのだ。

今日も、生きねばならない。

 

◇◆◇

 

あれから何日が過ぎたのだろう。あの日を境にすべてが暗転してしまった。

思いつめていた割には、信じられないほど呆気ない幕切れだった。あの日の僕の心の何処かに、いつかまた再会できる、と根拠のない甘い考えが潜んでいたせいだ。メイの話を覆すには、電話による説得など圧倒的に不利だとも考えていた。最終的な決裂となる前に一旦収め、日を改めて直接会うことにしようという思惑が頭の隅で働いていた。

はずだった・・。

定期便のように続いていた電話は、鳴る気配もないまま黒い置物と化している。メイからの電話を待ち焦がれているのに、僕から掛けることは何故だかできない。受話器を取ろうとする腕の動きは何かに封じ込められていて、その正体を僕は知らない。

鳴ることもなく手に取ることもできない電話を前にして、胸騒ぎのような焦りと一緒に、嫌な汗がジワリと滲んで激しい後悔が積み重なる。そしてそんな自分に心底嫌気が差す。

 

悪い夢だったと思いたい。メイと僕が別れるなんて。そんな馬鹿な話などある訳がない。これまでと同じように電話はできるはずだし、会いにも行ける。僕の冗談にメイが声を上げて笑い、腕を組んで街も歩こう。僕たちの共通の未来に向かって大空一杯に設計図を描こうよ ――― なのに、当然のように電話は鳴らない。

叶うはずのない淡い期待と落胆を繰り返しながら、時間という生命が擦り減ってゆく。楽しかった頃の思い出たちの一つひとつが、いまは寂しさの刃先となって止め処なく体内に蓄積される。

逢いたい。無性に逢いたい。

 

過飽和となり、抱えきれずに身体中の毛穴から溢れ出た刃先は、日常の光景を、車の運転を、ドラマのセリフを、駅の改札を、食卓の箸を、ナナカマドの赤い実を、コーヒーの苦さを、夕陽の輝きを、あらゆるものを苦痛に変えずにおかない。

 

◇◆◇

 

あの時のことはあまり覚えていない。思い出したくない記憶を肝の奥底に圧し止めていると言った方が正しいだろう。終わりにしようというメイの提案に、強く抵抗しなかったことへの後悔だけは、痛みとともに鮮明に残っている。足掻いても藻掻いても、何も変わらないことに苛立ちと焦りを募らせながら、この状況を変える方法など皆無だっていう理屈も、頭の隅っこに引っ掛かっている。

判っているのだ、終わってしまったことは。ただ、いまはそれを顧みる余裕がまったくない。

 

世界はモノトーンに覆われてしまい、生きるものすべてが虚しさの中で死に向かって行進している ―― メイのいない未来に、存在している意味を見出せない。

やるべき事を淡々と片付け、顔からは表情が抜け落ちる。悲しみも楽しみも苦役も食事もテレビも排泄さえも事務的に進め、夜になり朝が来る ―― そんなもの欲しくもなかった。これが人生なら早く終わりにしたかった。

この先、同じ後悔と屈辱を何度味わうことになるのだろう。過ぎ去った時は戻らない。人生に巻き戻しはないのだ。

 

メイを失ったことを知覚するたび、錆びたナイフで半身を削がれるような感覚を味わう。それは痛みというより苦しみに近かった。やめてくれ!、と大声が出そうになる。

ダメージは壊滅的でさえあり、修復不能に思える。やりきれない想いの矛先は自分自身へ、こんな状況を作り出し、狼狽え、焦り、無力感に苛まれている自分自身へ、嫌悪の塊となって向いていた。

 

感情のコントロールが難しくなっている。平静を装うために感情を圧し殺し、貼り付けた笑顔と愛想笑いで一日をやり過ごすことに労力の大半を費やす。

それでも気付けば、意図せず目に入ってしまった北国の映像に視線を吸い寄せられ、風景の中にメイの姿を捜している。カップルを見ればメイを思い出し、恋模様の映像ではメイと比べている。何を見ても何処にいてもメイの面影を捜していた。

 

◇◆◇

 

生活は少し荒れた。

メイを忘れるための遊びなど楽しいはずがなかった。なのにそれを止めることができずにいるのは、刹那の享楽に疲れ果て、記憶のないまま眠りに落ちる瞬間だけはメイを忘れていられたからだ。ボロ雑巾になってしまった自分を人間っぽく見せるための、それは方便だった。

 

メイを恨んだり憎むことができれば、少しは気が楽になるかもしれない。そんな理屈をこねくり回しても、恨むことも憎むこともできる訳がなかった。忘れることも、忘れたと思い込む努力もすべてが虚しい。為す術もなく時間(とき)の過ぎるのを待つには、その歩みはあまりに遅く、いつしか何かが狂いそうに思う。10年くらいすっ飛んでしまえば良いのだ。

頭をパカッと開いて脳みそを丸洗いできれば、失くしてしまった何処かに戻れるのだろうか。

 

 


いつしか歌われなくなったラブソングにも、
始まりのトキメキや、ぎこちないながらも濃密な瞬間はあったのです。
できるならラブソングを歌い始めたあの頃から順を追ってご覧いただけたら・・ 。