あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

ロシアンルーレット

わずかな時間だけ陽射しの落ちる細い通りを歩いていると、そこだけ抜けたように明るい陽だまりを見つけたりする。丸くなった猫が似合いそうな陽だまりは、トロトロと寛ぐには最高の場所になりそうだ。

季節を滲ませる情景に出会うのは、ずいぶん久し振りな気がする。そしてふと思う。暑さにも寒さに対しても感覚を失くしていた一時期を考えると、これは良い兆候なのかもしれない。季節を感じとれるまでに感覚が戻ってきたのだ。あれからいくつの夜が通り過ぎて行ったのだろう。

師走が近付いている。

 

ひと頃に比べ酷い落ち込みは減っているし、心の処し方もそれなりに上手くなったんだと薄々感じもする。それは遊び方にも現れていて、馬鹿な真似は確実に減っていた。

とはいえ、それは表面的に抑え込むことを覚えただけで、回復を意味してはいなかった。君とのことを考えないように、思い出さないように務めた結果だ。思惑が外れたのは、無理な抑制は必ずと言っていいほど綻びが出ることだった。

 

それは常にこちらの隙を窺い、最も効果的なタイミングで突然やってくる。仕事中であろうと遊んでいる時であろうと、はたまた宴席であっても就寝中でもお構いなしだった。

その日は宿直だった。定期試験や点検が一段落したあと、機械室入口前にある調整室で一日の集計と作業日誌の記入をしていた。すでに深夜の2時を回っていて調整室はシンと静まり返っている。日誌もあらかた書き終わり、何気なくふと顔を上げて向かいの壁の時計に目を遣った時に、それはやって来た。

突然襲い来る大波は一瞬で僕を丸呑みにし、君を抱き締めたあの日に連れ去ってしまう。抗う術などあるはずもなく、僕は君の腕の中で窒息しそうになる。それは苦しみではなく、甘美な陶酔のうねりの連鎖だ。そして沸点に達する寸前に僕の体内を透過し、二度と戻らない軌道を描いて遠ざかる。《終わりなのだ》という囁きと途方もない喪失感を置き土産にして。僕は真っ暗な虚空に、ぽつねんと漂うしかなかった。

 

◇◆◇

 

あの日、君の口から出た言葉は不思議なくらい現実感が希薄だった。受けている衝撃がまともに肉体に届かぬように、無意識のうちに理解の遮断が働いていたとしか思えない。どこか遠い他人の話を聞かされているようで、気持ちが言葉に付いていかない。僕は言葉の字面を眺ていめるだけで、その意味するところをまったく理解できていなかった。

僕が関知しないまま僕の運命が勝手に決められて行くのを、他人事のように眺めている心地がしていた。

 

僕は理由を問い質さなかったよね。そんなことを訊いたところで何になるだろう、という気持ちがあったからだし、どんな理由を聞かされたところで納得できないことは分かっていたからだ。そして何より、理由なんて無いだろうと理解していた。

『何故』 と 『だから』 の押し問答になれば、互いの欠点を投げ付け合い、非難の応酬に終始する泥仕合の展開が待ってるだけだ。僕にはメイを非難するなんてこと、とてもできない。それはメイがよく解ってるんじゃないかな。

けれどこうした考えは大間違いだったのかもしれない。もっと強引に自分の欲求を前面に出してぶつけるべきだった。僕は傷付け合うことを恐れていたに過ぎなかったんだ。

 

『一緒にならないからって、嫌いになったわけじゃないよ』 って、最後に君が示してくれた優しさは、熾火のようにずっと心に残っている。思い出になり切らない君の面影は、いつまで僕の胸を焦がし続けるのだろう。

それにねメイ、僕には君の言葉が『嫌いじゃないけど一緒になるほどでは』って聞こえたりもするんだ。それはいとも簡単に僕を打ちのめす。

嘘で構わないじゃないか。「あんたなんか大っ嫌い」と言い放って乱暴に電話を切ってくれれば。深傷を負ったとしても、その方が早めの再生が可能だった気がしてならない。少なくとも長い歳月を経た後も、繰り返し疼くような傷跡にはならないだろうと思う。

 

後悔なら山のようにある。言葉にしなかった後悔と、言わずもがなを口にしてしまった後悔と。間違ってもいいから "何か" を言っておけば良かったと、その当時から胸に刺さっていることもある。その内の幾つかでも別な道を選んでいたなら、違う結果があったのだろうか。君の気持ちを反転させてしまった決定打は、その中にあるのだろうか。

  

◇◆◇

  

君とのことが壊れたことは、まだ誰にも話せていない。知らせるべき相手は何人になるだろう。靄が掛かって白く滲んでしまった記憶の中をぼんやり思い返している。話さなければ、と思うほどに身体は硬直し脳は死んだように沈黙する。冗談なら幾らでも出てくるのに、君のことになると口は呼吸のための穴でしかなくなる。事実を伝えるだけなのに、それだけのことなのに、これ程までの気力と体力の後押しを要するものだとは、想像もしていなかった。

応援してくれている人達には、話せないでいること自体が裏切り行為のようにも思えて、重く閉ざしている心はより一層頑なになる。

特に転勤願いの提出に際してお世話になった方々には、一日でも早くお知らせすべきだろうし、何より転勤願いの取り下げは可能な限り速やかに行うべきだという決まり事が、ただでさえ塞ぎ込みたくなる状況に拍車をかける。

 

早く知らせるべきなのは解っている。その方が浅い傷で済むってことも判断できるくらいの理性は保っている。それでも話せない。務めを果たそうとする意識に身体が拒否反応を示す。何も出来ない。時が過ぎて行くのを漫然と眺めるしか能がなかった。

勝手に察してくれて、勝手に処理して欲しいと本気で願っていた。

すでに充分な深傷を負っているのだ。この上多少の傷くらい痛くもないさ・・・何もしないで済ませるための、屁理屈を捏ね上げた愚痴のような言い訳に寄り掛かろうとしている自分が小さく縮こまって見える。

 

一切の連絡が途絶えている現実を僕はいまだに受け容れられない。

 

◇◆◇

 

時折り不意打ちのように襲ってくるそれは、何もかもが僕の身体の奥深くに棲みついてしまったメイという名の悪戯娘の仕業だ。気まぐれに起き出だしてきては僕の神経を遊び道具に転げまわる悪戯娘は、憎らしいほどに愛らしく、一瞬にして僕を魅了する。

緊張を解いてはならない。悪戯好きな君にずっと眠っててもらうためには、意識の遮断をやり通すことが肝心だ。君の入り込む隙がないほどに、頭の中を君以外のことで埋め尽くしておくに限る。

けれど24時間の緊張の持続など無理な話なのだ。君との戦いに僕が勝つことは稀だ。

 

作業の合間にふと目を遣った窓の外にも、飲んだくれて握ったグラスの中で溶けてゆく氷にも、笑えない冗談に返す愛想笑いにも、目の端に映るテレビの映像や、油断し切っている夢の中でさえ、僕の中の悪戯娘が目を覚ます瞬間が待ち構えている。

ほら、また悪戯娘が目を醒ます。眩しい笑顔、心を溶かす声、すくい上げた指からさらさらとこぼれる髪、柔らかく滑らかな肌、僕だけに分かる君の匂い、触れた唇に伝わる皮膚の感触、抱きしめた腕を押し返す柔らかな弾力、僕の上に重なる君の生命の重み、それら一切がいちどきに押し寄せて、僕は一溜りもなく翻弄されてしまう。陶然となったその瞬間を待っていたかのように、あれほど輝きに満ちた君の存在のすべてが容赦なく消え失せる。君を抱いていた両の腕は空を掴み、結ばれていた心の回路は宙を彷徨い、為す術もないまま君は永遠に戻らないんだと悟らされる。神経は寸断され身体は麻痺して動かないのに、引き絞るような痛みと苦しみだけは全身を駆け巡っている。

君の悪戯は終わりのないロシアンルーレットのようで、いつまでも慣れることができない。

 

安全な避難場所など何処にもなかった。

 

 


いつしか歌われなくなったラブソングにも、
始まりのトキメキや、ぎこちないながらも濃密な瞬間はあったのです。
できるならラブソングを歌い始めたあの頃から順を追ってご覧いただけたら・・ 。