あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

ひとつになる

永遠のようにも数分のようにも思える曖昧さで、過ぎていった時間の感覚が身体の芯に残っている。辺りを覆う薄明かりは夜明け前なのだろうか。

『ここは・・』何処だろう。

ぼんやりした頭で周囲を見回しても、手掛かりになりそうなものは何も見当たらない。天井も床も壁もはっきりせず、場所も時間も不確かな影のない空間に浮いているようで身の置き場に苦労する。

すべてが曖昧なこの場所に不思議なほど悪い印象が湧かない。それどころか安らいだ気持ちで受け容れようとしている自分がいる。きっと、寝起きが悪くて中途半端な目覚め方をしているせいだ、と半ば強制的に納得することにした。慌てずに済んでいるのも、恐怖を感じないのもそれで説明がつきそうだ。

おぼろげな記憶を手繰り寄せると機械室の印象が残っていて、あのまま寝てしまったんだと思い当たる。

『そうだ!』あの時はメイが一緒だった。

瞬時に寝ぼけた意識の薄膜が取り払われ、闇に落ちる感覚が走って身体が硬直し腕に力が入った。

「ん、ん‥」

微かなうめき声が聞こえて腕の中で何かが動き、ギョっとして下を向く。

「メイ‥」

腕の中で動いたのはメイだった。抱き合って座り込んだあの時の姿勢のままだ。僕の声もうめき声に聞こえただろう。

締め付けられて藻掻いたメイが薄っすらと目を開ける。僕は慌てて腕の力を緩め、メイの顔に掛かった髪を除けようと指をかける。が、焦っているのか上手くできない。メイは頭を振り、自分で髪を掻き揚げた。

見上げる動きを察して目が合うのを一瞬躊躇う。泣き腫らした顔が容易に想像できて、見られたくないだろうとの遠慮を覚えたからだ。けれどそんなものは勝手な杞憂に過ぎなかった。

いまのメイは疲れた様子もなく涙の跡も消えて、とても晴れやかに見える。

 

「おはよう」って聞こえたような気がして、僕も「おはよう」って返す。おはようが適切な挨拶だったのか判断はつかなかったが。

夜明けにはまだ遠い薄明かりが四方に広がっていて、僕たち以外に誰もいないし何もない。朝か夜かも分からない一種異様な空間で僕たちは二人きりだった。そんなおかしな世界をメイは意に介していないようだ。

「メイ」僕の声は呆れるほど掠れている。

「ん?」

見上げるメイに緊張している様子は見られない。この不可思議な場所をメイはどう感じているんだろう。

「メイ、この場所・・」

促すようにして周囲に目を遣ると、僕の抱いている不安を和らげるようにメイの優しい声がした。

「大丈夫よ」

え?、と思う。

真偽を確かめるように向き直ると、こちらを見詰め返す眼差しには僕たちの置かれている状況を自らのものとする意思が秘められていた。それはとても強く、ここは私たちの世界、と語っていた。

ここはメイと僕の、二人のための特別な場所なのか。

「そうなんだね」

メイはにっこり微笑み、あとの言葉は要らなかった。

 

 

ゆっくり抱き締める僕の両腕に、メイの軀は確かな反応と存在を残してくれる。懐かしい記憶がよみがえり、流れ去ってしまった時の重なりが見える気がした。

「あの、変なこと訊いてもいいかな」

素直な瞳が僕を見上げる。

「ん? なあに?」

「しあわせ、だったのか?」

思案するような陰りが瞳の中に束の間宿り、追いかけるように明るい顔が《大丈夫かしら》と問いかけてくる。

「妬かない?」

言葉の意外さがチクリと胸を刺す。

「もう卒業したよ、そうしたことは」

咄嗟に吐いた強がりが舌先に苦い。嘘ではないものの、真実でもなかった。

「そうか。そだね」メイは一つ頷く。何かを察した声だ。「なら、ホントのことを教えてあげる」

「うん」と言いながら、どこかホッとしていた。

「私は、」照れ臭さが少し混じった声だった。「しあわせ、だったよ。ずううっと」

言い終わった顔には揺るぎない誇りが滲み、飾る必要のない本心だと伝わってくる。

「そうか、良かった」

予期していた答えがメイの口から直接聞けて嬉しい。メイの事だから自分の選択が間違っていたなんて決して言わないだろうと信じていた。例えそれが嘘だったとしても。そしてメイの答え方は、嘘など言う必要もないと語っていた。ずっと抱えていた心の重荷が嘘のように消えて爽やかな風が吹き抜けて行くようだ。単純だな、と自分でも思う。メイの表情と言葉は僕にもお裾分けをもたらすようだ。「ホントに良かった」

「あなたは?」

当然予想される問いなのに、答えは用意できてなかった。

「僕?」さあ、なんと答えよう。「しあわせ、だったよ。それなりに」照れが出て余計な一言を付け加えてしまう。

幾分ねじれている僕の心情など織り込み済みらしく、メイは心からの笑みを見せる。

「良かった。嬉しい」

 

メイの『嬉しい』が僕の中にも入ってきて歓びに昇華する。それはメイにも伝わり数倍の感情と共に僕に還ってくる。言葉を交わしているのに、メイの話す言葉以上のものが僕の意識の中に直接響いてるような気がしてメイを見詰める。

この不思議な感覚は何?

見詰める僕の目の奥にメイの澄んだ声が響いた気がした。

《信じて。私を》

僕に向けている笑みにはいささかの迷いも感じられない。

僕はずっと信じてきたよ。それはメイも知ってる通りだし、これからもずっと信じることに変わりはない。例えこの可笑しな世界が終わったとしても。

 

 

仰向けに寝転がった僕の上で、メイは「心臓の音を聞きたい」と僕の胸に耳を当てた。懐かしい皮膚感覚が、おぼろげなあの頃の記憶の中に同じ情景を浮かび上がらせる。ここがメイと僕の二人だけの場所なら、訊いてみたいことがあった。

「ねえ、憶えてるかな」

「なに?」君は胸に耳を当てたままだ。

「どれくらい前かな、僕が『一つになりたい』って言ったことがあるんだけど」

君は記憶をたどるように上目遣いになり、再認識するようにゆっくり言葉にする。

「うん、憶えてる」

以外だった。あの時のメイの意識はどこか別の方向を向いていて、僕もそれ以上は追いかけようとはしなかったから。思いがけないプレゼントのようで顔が綻ぶのを抑えられない。

「憶えてたの?」

「・・・」

僕の顔を見たメイは黙ってしまった。微かに揺れる君の軀が心の様相を現している。誰にも聞かれてはいないのだ、素直にそのまま話したい。

「メイの返事が曖昧だったから、憶えてないと思ってた」

言葉を舌に乗せるまでほんの少しの間が空く。それはメイの躊躇いにも思えた。

「あの時はね・・」胸から耳を離した君は同じ場所に顎を乗せ、上目遣いになって僕を見る。そして急に小声になった。「もう・・なってるのに、何を言ってるんだろうって思ってたから」

「・・そう、だったのか」

僕は、なるほど、と納得して何度も頷き、網膜のシャッターを何度も切っていた。永遠に留めておきたいメイの表情だ。

「だから、なんて返事していいか分からないでいた」

メイの反応の真意もメイの可愛らしさも十二分に伝わって、僕は再びしあわせな時間を味わっている。

「うんゴメンな。あの時は言葉足らずだったから戸惑うのも無理ないなって思う」

「・・・」

「でも説明できる状況じゃなかったから」

「・・・」

「考えてることや意識が直接伝わってくれれば、いいんだけどね」

「そうね」

「あの時僕は、心も身体もずっと一緒に居たいって思ってて、片時も離れたくない気持ちで一杯で、それであんな言い方になってしまった」

「・・」メイの顔には、よく解らない、って書いてある。

「心も身体もぜんぶ、メイと一緒になって、二人でひとつになりたいって思った」

「ひとつって?」

「一心同体じゃなくて二心同体って言えばいいかな、そんな言葉ないけど。いつも同じものを見て同じ話を聞いて同じ経験をして同じように感動していたい。メイの楽しみや嬉しさを一緒に喜んで、悲しみや苦しみは分かち合いたい。だから」いったん言葉を切った。メイに伝わるように。「ペアになるんじゃなくて、二人で一つ」

「二人で一つ、・・え? 合体とかサイボーグとか?」

「サイボーグか、言ってしまえばそうなるのかな」

僕は浮かない顔になってたらしい。

「違うの?」

「別の『何か』になるのとは違うから」

「それって何なの?」

「メイと僕が一つになるんだけど、メイはメイのままなんだ」

「ふうん」理解できないことを無理やり飲み込まされたような声を出してから、君はもっともな質問をした。

「それであなたは?」

「メイと一つになったら僕は消滅する。それでもいいって思ってた」

「消滅って、なくなっちゃうの?」

「身体はね。でも心はメイの中で生きている」

「ちょっと、怖くない?」

「架空の話だからね。ただ、できたらいいなって半ば本気で願ってたな」

「私は、違うかな」君は難しそうな顔になった。「私とあなたとは別の人格で別々に生きてて、その上で好きになって一緒に暮らしてっていう方がいい」

「そうだな。それでいいと思う。メイの考えの方が健全だよ」

「私もあの頃はたぶん舞い上がってて、似たような心境になってたから分からなくはないけど」

「ありがとう。今では僕もメイと同じ考えだよ。ただあの時は無我夢中だったね。ずううっとくっ付いていたかったからな」

「うん」メイの瞳が大きく煌めく。「片時も離れるのは嫌だったもね」

「もっと近くだったら、ほんとに良かったのにって思う」

「ねえ。もしもよ、もしも」メイは何かを企むような表情で言った。「あの日にね。私があなたとひとつになりたいって言ってたら、あなたはどう思ってた?」

どうって、たぶん面食らうだろうと思う。そして、なるほど、と気付く。前触れもなく突然言われたら戸惑うことは確実だと容易に想像がつく。

 「考えてもみなかったなあ」イメージが掴みにくい。「同じことのように思えるけどねぇ、どこか違うような」

「私があなたになって歩くのも面白いかなって、ふと思ったんだけど。何か問題でも?」

楽し気なメイの問いに想像力が刺激される。

「メイが僕になって歩くのか、僕も一緒で・・」それはどう見ても常日頃見慣れている僕の姿で、折角の提案だけどわくわくしない。何故だろうと考えた時、決定的な違いに気付いた。「ただ今の提案は残念ながら却下かな」

「そう、なして?」

「それだと、メイが見えなくなっちゃうでしょ」

「あら、それは不公平っしょ」

抗議する目が真剣を装っている。その目は僕を追い詰めて楽しんでいるよね。

「やっぱりそう思う?」

「うん、思う」

柔らかい笑顔が僕を見つめている。その顔だよ、その笑顔が僕を君に引き寄せて止まない。何故だか勝負あったなと素直に思えてしまった。

「今更だけど、謹んで僕の提案も撤回しましょうね」

「・・・」メイの口角がニッとあがった。

僕は少し強めに抱き締めた。

 

 

「ねえ」

遠い目をしていた僕は、君の声で目の焦点を合わせる。

「ん?」

「さっき話してて思ったんだけど」

「うん」

モソモソと動いたメイは胸に当てていた耳を再び顎に変えて、僕を上目遣いに見ながら話し始めた。

「いつもあんな風に色んな事を考えてるの?」

「いつもじゃないと思・・」答える側から自信が消えていった。「あ、ごめん、分からないや。 それって皆んな同じじゃないの?」

「外の人の事は知らないけど、私はそんなに色々とは考えないよ。それにね」君は僕の視線を捉えるのが上手い。「頭に浮かんだことはすぐ話すんじゃない? 普通」

「普通、か。話せる内容ならそうかもね。でもさっきのは難しいでしょ」

「あれは、別としてね。普段からあれこれ考えてる?」

「気にした事ないからなあ、意識しなかっただけで多いのかもしれない。愚にもつかない事を考えてる気がする」

「それを話さないの?」

「ええ?」思わずメイの目を覗いてしまう。考えた事もなかった。「愚にもつかない話だよ。頭ん中じゃ整理のつかない考えがゴミみたいに散らかってるから、とても話せるレベルじゃないよ」

メイはしばらく黙って僕の顔を見上げ、それから少し上体を起こした。顎の乗っていた跡が赤く凹んでいた。

「聞きたいな」ポツリと呟いてから改めてはっきり言った。「うん、私は聞きたい」

「何を?」今の話を聞いてたでしょ?と問いたくなる。「支離滅裂だよ。そんなの聞きたいの?」

「そうかも知れない。でも・・」メイは言うか言うまいか迷っていた。「あなたは、話っていうか意見が足りないから」

「僕の意見?」おかしな雲行きになりそうだ。

メイは僕の問いには直接答えず別の話を切り出した。

「雑談って他愛ないものだけど、何気ない話やポツリと漏らす言葉の積み重ねの中に、その人の人間性が滲み出るものだと思うけど、違う?」

「違わないと思う。その通りだよ」もっともな話に頷くしかない。

「友達の事とか、会社での事とか、自分の事とか、話してるのはいつも私で、あなたの話をあまり聞いてない気がするのよ」

「そう、か」言葉が出ない。

「返事はしてくれるし冗談も言ってくれるけど、それだけじゃ足りない。それだけじゃ、あなたが分からないよ」

「確かにメイより少ないけど話してる積りでいたよ。それじゃ分からないってこと?」

「きちんとした話は聞いてるわ。それは素直に嬉しかったし感謝もしてる。私が足りないなって感じるのは普段の会話なの。暑い寒いもそうだけど、美味しい店見つけたとか面白い本があったとか、服がかわいいでも洋菓子より和菓子が好きでも、気になってる事やふとした思い付きとか、なんでもいいの。たくさん話してれば好き嫌いや考え方なんかも分かるもの。ごめんねこんな話で。怒ってるんじゃないからね」

「・・うん、分かってるよ」

「あなたは世間話が苦手なんだなって思う」

「それは」図星だった。

「分かってるんだけど、物足りない気持ちが残ってしまうの。取り留めのない話でいいから、たくさん聞きたい。その中にはきっとあなたの個性が入ってるはずだから」

メイの引き締まった顔が心なしか青白く見える。メイが今、自分の気持ちを僕にぶつけているのが伝わって、鳥肌が立ちそうになる。

「そうだな、その通りだよきっと」

「だから、あなたが今考えてることや感じてることを話して欲しい、筋道なんかなくていいから。あなたの気持ちを知りたい、あなたをもっと知りたいのよ」

「僕の気持ち」

自信がなかった。子供の頃から自己表現は下手くそで大の苦手だ。自分の考えや要求を誰かに伝えるのも上手いとは言えない。まとまってない考え事をメイの望む様に話せるのだろうか。

「子供の頃からずっと、話すのは得意じゃなかった。まして自分の事ってなると」

「うん」

泥沼に嵌りそうな予感がして、抜け出せなくなったときの覚悟も頭の隅をよぎる。メイは明らかに期待のこもった眼で見上げてくる。上手い解決法などあるはずもないのに。

「考えついたことや心に思ってることをさ、直ぐに口にするのは慣れてないんだ」しどろもどろになりそうで落ち着かない。「当たり障りのないことなら言えるけど、大切なことは」

こくりと大きく頷いたメイは両腕を僕の胸の上に組み、そこに顎を乗せてじっくり聞く態勢に入った。その目は、続きをどうぞ、と言っている。

「ある程度形にならないと話し出せないんだよ。状況はいつだって変化するし自分の考えを修正したくなることが多いから。それが大切なことだったら特にね」

二度ほど小さく頷いたメイの目に真剣な色合いが漂い始める。

「おまけにね、考えや気持ちがはっきり固まっていても『分かってるだろ』って思った時は、話しを端折る癖がある。そういう時って、態度や行動を見れば分かるはずだから話すまでもないだろうって考えてしまうんだ」

ふうん、と言ったメイは思い当たることがあるようだ。僕は既に『分かってるだろ』を幾度か実践済ってことなんだろう。

「そして厄介なことに、信頼してる相手には、そうなることが多いんだ」

メイを見ると真っ直ぐ僕を見ている視線にぶつかる。少しは理解してくれてることを信じて、僕はその視線に向かって進んだ。

「メイに対しては余計にその傾向が強くて、僕の気持ちはメイと同じで僕の考えてることはメイも考えてるって勝手に思い込んでいた」

話の方向性が微妙にずれ始めてることに気付いたものの、止めたくなかった。メイにも了承している気配があり、話の焦点が自分に向いても動じない様子が僕には有難かった。真剣な目がそこにあった。

「だからメイの事が好きで大切で何物にも代えがたくて、ずっと離れたくないとか、この先もいつまでも一緒だっていう僕の考えと想いはメイも同じで、それがメイと僕の共通認識だと思っていた」

「そう・・」心の置き場を何処にしよう、メイはそんな風情だった。

「僕たちは同じ方向を向いていて、これからも一緒に歩んでゆく。甘いと言われても仕方ないけど、僕たちは専用の列車で一緒の暮らしに向かって進んでいて、それは数年のうちに始まる予定になっていて、その先にはメイと僕との希望だけが見えていた。僕はこれから始まる二人の生活がとても楽しみで、今まで経験したことのない未知の世界が広がっていると感じていた。世界中のどこにもない、誰も知らないまったく新しいメイと僕の家族が始まるんだ。二人で新しい道を創っていくんだってワクワクしていた。それはメイも同じなんだと思っていた。だから」

メイの身体が動いた。

「ちょっと待って」上体を少し浮かすようにしてメイは言った。「私も同じような夢、描いてたよ。ああしたいな、こうしたいなってね。でも、あなたが同じ考えなのか分からなくて、訊く勇気もなくて」次第に俯き気味になっていた顔がゆっくりと上がる。その目は何かを訴えていた。「話して欲しかったわ、少しでもいいから、そしたら」

途切れた言葉と翳りを帯びた瞳が僕の胸を刺し貫く。出掛かった言葉は喉の奥で固まってしまった。

「そだね」いくつかの瞬きの後で、言えたのはそれだけだった。

メイは組んだ両腕の上に横向きにした顔を乗せている。

あと少しの勇気があれば、互いに抱いていた夢は成就したのだろうか。僕の努力があとほんの僅かでも多かったなら、夢の破棄という代償をメイに払わせずに済んだのだろうか。同じ痛みがメイと僕を覆い、言葉を押し出せないでいた。ほんの少しでいい、今だけでいいから、そう願いながら心の芯に力が溜まるのを待つしかなかった。

「ごめんね」言葉で痛みが和らぐならどんなにいいだろう。メイの背中をさすりながら僕は祈り続けていた。

「ホントにごめんね」

メイは小さく頷いただけで無言だった。自分の考えや想いを話さなかったことでメイが傷つき、そのことで僕も傷を負うなんて想像もしなかった。

「僕がもう少し気の利く奴なら、こんな思いさせなかったよね」

無意識なのかもしれない、メイの頭が小さく横に振られたように見えた。

「肝心なことを、なかなか言えない口で、自分でも嫌になる」

「うん」

細い声だった。それでも兎に角、メイの声は僕に勇気を与える。

少しは落ち着いただろうか。背中に当てた手はゆっくりと動かし続けている。

「言葉にならないのは、考えてることが曖昧なまま形を成してなくて、話せるレベルまで出来上がってないからだと思う。ある程度の完成を見るか、確証を得るまで口に出さない傾向があるんだと思う。それが大切な話なら、その傾向は余計に強くなる気がする」

「ん・・」

メイの、聞いてるよ、サインがいまは嬉しい。それが過ぎた日の後悔を思い出させる。

「あ、変なこと思い出しちゃった」

「なに?」

富良野へ行った時だと思うけど、『ナナカマド』のことをメイが僕に訊いたの憶えてる?」

「憶えてるよ。『分からない』って言わなかった?」

「そうなんだよね。あの時も同じだった。運転中でハッキリ見えなかったけどナナカマドだってピンときた。手紙にも書いたしね、少し前に。けど確証は持てなかったから。近付く訳にもいかなかったし。それで『分からない』って答えてしまった」

「ふうん」

「それと後輩が読めなかったっていう『天衣無縫』もそうなんだ。メイが苦心して違う言葉で説明してるのに『分からない』って言ってしまった」

「それは仕方ないんじゃない? 曖昧な言い方だったから」

「言った後、すっごく後悔した。何かしら答えてればそこから話が展開できたのに、ブツッて切ってしまったから。気分を害したろうな怒らせたろうなって、しばらく落ち込んでたよ。上手くフォローもできなかったし」

「それは、少しはガッカリしたけど、そんなに落ち込むことないのに」

「落ち込むさ。思い出す度に自分が嫌になるもの。いまの話に繋がってるしね」

「そうなの?」

「今だから話せるのかもしれないって思う。あの頃は色々な思いの断片が雑然としていて、感情と意思の境目も曖昧なままで。自分の気持ちの芯の部分は固まっていても、それを表す適切な言葉を探してるような状態だった。夢として思い描いている将来をメイに YES って言って欲しいのに、どうやって伝えたらいいか分からないから、それをメイも同じなんだって思うことで安心しようとしていたんだと思う」

小さく頷くメイが見えた。

「だからって、話さないでいい理由にはならないよね」

メイは僕の話をゆっくりと確かめるように咀嚼していた。

「私もあなたのこと大切よ。でもね、私も女だから言葉にして言われたい。それに離れている時間がとても長いから、もっとたくさん話しても欲しいわ。バラバラな話でもいい、途切れ途切れでも構わない、あなたの言葉で包んでいて欲しかった」

「そうだったよね」いまならこんなに分かるのに、あの頃は何故気付きもしなかったんだろう。メイの背中に添えている手に無意識に力が入っていた。

「もっと聞きたいのよ、何を考えてるとか、これからどうしたいとか」

「うん・・」

「意見が衝突したり喧嘩になったりするかもしれないけど、それでも聞きたい」

心の真ん中を射抜かれた心地がした。メイが懸命な眼差しで伝えてくる言葉は、僕には真剣な愛の告白に聴こえる。メイの言葉が胸のずっと奥にじわじわと沁みてくるまで、メイの視線に僕の視線を絡めていた。

喧嘩になってもいいから、僕の話や意見を聞きたい ―― それは聞きようによっては I love you. そのものだった。

「分かった、難しいけど、話すようにする」

「それでね、『解らない、訊かなきゃ』って思ったときはきちんと訊くから、その時は分かるように話して。さっきみたいに」

もちろんだよ、メイには僕の全部を分かっていて欲しいからね。ただ一つ問題がある。長年馴染んできた僕の性癖が簡単に切り替わるとも思えない。努力はするけどメイの期待にどれだけ応えられるのか心許ない。

「約束する。けど、長年の癖になってるから簡単じゃないと思う。精一杯の努力をするからメイも協力してくれたら嬉しい」

「もちろんよ、どんな協力でもする」

「ありがとう」僕は一呼吸おいて頷いた。「もし、言葉が足りないって感じたら、それでどうしたのって訊いて欲しい」

「うん」

「それから、黙って遠い目をしてる僕が気になった時は、遠慮なく『何考えてるの』って訊いて欲しい」

「うん」

「大したこと考えてないし、取り留めのない事が多いけど、出来る限り話すようにするから」

「うん、約束だね」

厳しかったメイの顔に柔らな笑みが差した。

 

 

僕の胸の上で静かに伏せているメイは、疲れた様子で口数も少ない。緊張の解けた安心感が漂い、重ねた胸から伝わる温もりは幾分暖かさが増したようだ。メイの背中に乗せた僕の手は、赤子をあやすようなゆっくりしたリズムを刻んでいる。快い眠りに落ちて行く瀬戸際で、メイの唇から言葉にならない声がこぼれた。ありがとうのようにも、あずましいのようにも聞こえた。

夢を見ているなら目覚めの時まで憶えていてくれないだろうか。楽しい夢だったならその時に訊いてみよう。言葉の意味も含めて。

 

メイの表情は僕の顎に当たっている君の頭に遮られて見えない。それにこの姿勢では君の寝顔にキスすることさえできない。「いいさそれでも」と心の中で強がりを言う。安心し切ったメイが僕の腕の中で眠りに就いている、その事実こそが僕の望みでもあるのだから。

メイの背中をさすりながら、ここへ来る前のことを思い返していた。あまりに唐突な再会に混乱して、何が起こったのか理解できないままだ。それにあの時はメイも取り乱していたようにも思えるけれど、メイの意志で来たのではなかったのか。

何もかもが僕の腕の中で眠るメイに起因し、すべての謎はメイの心の内側に封印されている。メイが目覚めた時、僕はその鍵を開けることができるのだろうか。

 

たぶん僕は鍵を開けない。これまでのメイも、ここでのメイも、すべてを含めてそれがメイだから。メイの様々な側面のこれはその一つなのだ。

僕はこれまで様々なメイに触れてきた。そこには笑顔や真剣な眼差しや甘える仕草もあり、寝顔や悪戯を企む表情にも出会ってきた。けれど、泣き崩れるメイは初めてだった。あの時の僕は小刻みに震えるメイの身体を全身で受け止めながら、自分の内側にも波立つものを覚えていた。あの時の心の震えを僕は信じたい。

 

 

時々の状況や感情でくるくると変わる君の表情は、触れている僕の大きな歓びだ。

それでも、と思う。まだ出会えていないメイは大勢いて、多分そちらの方が多いのだろうと。意図して僕には見せなかった顔も沢山あるよね。構えてない、取り繕ってない、普段着のメイがとある瞬間に見せる表情は、自分では気付かぬまま見た者を魅了するに違いない。。

その輝きは、一瞬であるが故に永遠なのだ。

日々の暮らしの至るところに潜む輝きは、例えばある日のメイの、こんな状況のこんな処で、垣間見ることが出来るのかもしれない。

買い物を済ませ店を出た時には雨になっていた。『所によって通り雨が・・』出掛けに聞いた天気予報を信じて傘は持っていた。そこまでは良かったのに、この靴。やっぱり別の靴にしてれば、あの時迷ったんだよなあ。家路を急ぎながら足元に注意し、そんな事を考えていたせいだろう、傘に当たる雨の音がしてないことに気付くのが遅れた。心なしか、空が明るんでいる。
『雨、止んだのかな? いつの間に?』
そう思うと頭の上を塞いでいる傘を傾げていた。雲が切れて青い空が覗いている。
『今日はいいこと、あるかもしれない』そう信じることにする。
心まで伸ばすように空を見上げた。

そしてまた別な日の、こんな場合のメイにも。

友達と会う約束をしていた。高校時代からの友人で久し振りだ。今日は朝から張り切って、自分で言うのもおかしいけれど脇目も振らずに仕事をこなした。勿論、定時に退社するために。
さっさとデスクの上を片付け「お先に」と事務室を出ると、大急ぎで着替えて職員通用口へ向かう。
「あらぁ、雪」扉を開けて思わず声が出た。
油断していた。冬だから雪なんて当たり前なのに、弾む気持ちと楽しい想像で心の中はいっぱいで、仕事中に窓の外を見る余裕もなかった。今日の私の守備範囲に、雪が入る余地はなかった。
吹雪じゃないから良しとしよう、急がないと友達を待たせてしまう。マフラーをグルグル巻きにして、えいやっと雪の中へ歩み出る。
「うん、大丈夫」寒くはない。
積り始めた雪に注意しながら表通りへ出る。どこの店に行こう、何を食べよう、友達との会話を想像するだけで頬が緩んで幸せな気分になる。
大きな交差点に差し掛かり信号待ちをしている時だ。強い風が吹き付け雪煙が舞った。反射的に頸をすくめ風下を向く。
「寒っむ・・」
マフラーの中へ鼻先まで突っ込んだ。

飾らない普段着の姿なら、共に暮らす生活の中でこそだったりもする。

手にしたリンゴの切り方を思案する、掃除機をかけながら鼻歌が出る、小さな針孔に目を凝らす、汗ばむ暑さに顔をしかめる、手を止めてテレビに目を走らせる、午後の静けさに瞼が重くなる、忘れ物はないかバッグを覗く、夕陽の眩しさに手を翳す ・・

そうした時に垣間見せるメイの素顔は、無防備で誰よりも素敵だろう。

 


もしもメイとの暮らしが始まっていたなら、ふたりで歩いてみたい道が二つあった。

一つは冬。

折角の休日なのに朝から盛んに雪。恨めしそうに灰色の空を眺めている僕を君が誘う。
「ねえ、何か暖ったかいもの食べに行こうよ」
「ええ?」僕の声にはとんでもないって気分がそのまま出てる。「雪だぜ、それもジャンジャン降ってる」
「だからよ、だから暖ったかいものなんでしょ」
言いながら君は、もう動き始める。
「暖ったかいもの食べたって、帰ってくる間に冷えちゃうでしょ」
僕が文句を言ってる間にも君は身支度を済ませ、僕の防寒着を手にしている。
「はいはい、あなたも寒くないようにしてね」
圧し切られるのはいつものパターンで、近所のラーメン店を目指した。
帰り道は防寒着の襟で口元まですっぽり覆った。暖かさで満ちた身体をくっつけあって腕を組んで歩く。襟の擦れる音がガサゴソと耳に響く。
「旨かったけど、寒いのはやっぱり寒いよ・・」
ブツブツと呟く僕の愚痴を、君は聞こえないふりをしている。
僕は組んでいる腕に力を入れた。
歩くたび足元の雪がギュッギュッと鳴いた。

もう一つは夏。

遠くで祭囃子が鳴っている。
「今夜は星が少ないね」
大通りから外れた道へ曲がったところでメイが言った。僕は空を見上げながら雲の様子を確認する。月のある辺りがぼんやり明るい。
「雨にはならないから、祭りも無事に終わるよ」
「天の川でもさ、眺めながら歩きたかったな」
上を向いたメイの頭で、オカメのお面が小さく揺れる。
可愛い、と言ってメイが手にした小さなお面を、露店の女将が着けてくれたものだ。安くしとくよ、と渡されたヒョットコのお面は、僕の背中にぶら下がっている。
「そだな」僕は少し離れ、改めてメイに目を遣る。「遠回りしようか」折角の浴衣姿なのだ。
紺色の地に大胆な雪輪文様と可憐な桜が、群青と白抜きで描き分けられた浴衣、臙脂と茜色で境い目の緩やかな市松模様を浮き出し、桜の花びらを小さく散らした帯。浴衣は二人で、帯は浴衣に合うようメイが選んだものだ。粋でいて、なんという艶っぽさなのだろう。大人への道を歩き始めた女性特有の、匂い立つような色香を纏って、メイがそこにいる。
「ゆっくり歩けばいいよ。早めに引き上げたんだもの、真っ直ぐ帰ろ」
遅くならないうちに帰ろうと決めて、早めに家を出ていた。あなたも浴衣にすればいいのにと言われたが、面倒だからと白いTシャツにブルージーンズで済ませた。出掛けの玄関には二人の下駄が並べられていた。
浴衣の裾から覗いた白い足頸が、ゆっくり交差するたび腰の上の帯が細かに揺れる。眩しいくらいの愛しさに息苦しさを覚え、見えない星空を仰いだ。
「ねえ」と並び掛ける。「時々さ。浴衣、着てくれないか?」
「いいけど。あなたも浴衣着る?」
僕の体形は浴衣向きとは思えないよ。
「僕はこの格好が一番落ち着くんだけどなぁ」
「ん~。。」不服そうな瞳がこちらを向く。膨らませた頬はまるで少女だ。「私だけじゃ、つまらないでしょ」
そうだったね。僕の浴衣を選んだのはメイだった。あなたは絶対これ、と言って。
「着てもいいけどさ・・」不格好になりそうで。
言い淀んでいるうちにメイが先手を打つ。
「良かった。きっと似合うから」この上ない微笑みで、言い切られてしまった。
そんな屈託のない顔で言われちゃ、断れないよね。
「仕方ねぇなあ」言いながら口元は綻んでいた。
長年日本人が慣れ親しんできたのだ、似合わぬはずがない。と思うことにした。
「二人でね」メイの目が嬉しそうだ。「浴衣着て、歩きたかったんだ」
「そうなの。僕はね」僕も嬉しそうにして囁いた。「なんだか、惚れ直してしまうんだな。メイの浴衣姿」
「なあに言ってんだか。何にも出ませんよ」メイは満更でもない様子で腕を絡める。「ご飯は済んじゃったし」
「ああ残念! 食べなきゃ良かった」と言ったけど、少しも残念ではなかった。
僕はメイの身体をもっと引き寄せ、くっ付くようにして歩いた。
オカメとヒョットコのお面が調子を合わせて揺れる。カラコロと響く下駄の音が、時に調和し、時に不協和音を奏でている。家まではもう少しある。

できる筈だった二人の生活が、伸ばした手の先に触れそうで届かない。そのもどかしさはあまりに切実で、僕の心は身悶えする事しかできない。

 

 

夢かも知れないと薄々感じてはいる。出来過ぎの状況設定とあやふやな背景がその考えを補強する。

でも、と思う。これが夢なら、セリフも感情も僕の脳が作り出してるはずなのに、夢に登場するメイの考えが何故僕に分からないのだろう。何故僕の心がメイに伝わらないのだろう。

メイの背中が規則正しくゆっくりと上下している。上下動に合わせてメイの肺から送り出された空気が、平穏で安らかな囁きと共に僕の胸をピンポイントで温める。すっかり寝てしまったメイは何時目覚めるのだろう。その時まで僕は眠らずに待っていよう。

 

これが夢なら、夢の中の夢になるんだろうか。覚めた時は何処にいるのだろう。機械室なんだろうか、ずっと後の時代なんだろうか。

さらなる夢があるのなら、あるいは目覚める時を選べるなら、僕は「あの頃」に行きたい。

 

 


物事には始まりがあって終わりがあります。
できるならこの話が始まったあの頃から順を追ってご覧いただけたら・・。