あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

彼女がいる顔

予想通りにパラパラと振り出した雨は、直ぐに土砂降りになった。

激しく地面を叩いた雨粒は砕け散って霞となり、光沢を帯びた生き物のように右に左に揺れている。僕たちを追い抜いて行った車は、テールランプが引いた赤い航跡の先で少しずつ小さくなってゆく。じっと見つめていたメイは前を向いたままポツリと言った。

「あの頃さ、僕には彼女がいます、って顔してなかった?」

「へ???」

メイの言葉が胸のど真ん中を貫き、間の抜けた声とは裏腹に手のひらにジワリとした感触が走る。一瞬、当時の心境が甦る。

「彼女? 僕に?」

「うん彼女」言いながらこちらを窺う。「いなかった?」

隠し立てする訳ではないけれど、何と答えるべきだろう。

「彼女なんて、いなかったよ」答えに窮した分、及び腰になっていた。「それに、彼女がいるかどうかなんて、顔で判るのか」

「態度かな。余裕たっぷりって感じだったし」

「僕が?」とても信じられない。「余裕たっぷり?」

「だって、そうだったでしょ?」

何処からくるのだ、その確信は。

「例えばそうだったとして、なんで余裕があると彼女がいることになるわけ?」

「そうねぇ」

僕の様子を窺うようにしていたメイは正面に向き直り、やや上向き気味に暗い空に視線を漂わせる。何気なく真剣な表情は考え事をするときのメイの癖だ。僕のために言葉を探し、僕に向けて話を組み立て、僕に伝えようとしている。君はどんな時でも真剣なんだね。

「奥さんとか決まった女性がいるひとって、話し方や物腰に独特の柔らかさがあるのよ。女性に向ける視線にも尖ったところは無いしね。そうした全体の雰囲気や行いが女性に対して余裕のある印象を与えるんだと思うわ」

メイの瞳はキラキラとして迷いがない。

へぇ、と感心しながらあの頃の自分の行動を思い浮かべる。メイの話と自分の記憶に埋まらないギャップがあるように思えた。

「そんな風に見えていたんだ」

「違うの?」

「いなかったよ」嘘ではないのだ。「彼女と呼べるような人は」

「ふうん、私はてっきりいるのかと思ってたわ」

あなたはどうだったの、私の事どう思っていたの。そんな風に訊かれた気がした。

彼氏の存在なんて考えた事もなかった。それは気にする必要のない事柄で、過去も未来もなく今日を生きる子供のように毎日が無邪気に過ぎ、メイと僕との間は枝分かれのない一本道で結ばれている気がしていた。メイがまとっている香りの中に男の影はなかったのだ。

メイは僕の振る舞いから何を感じ取ったのだろう。僕は自分で気付かぬまま、メイの思い過ごしを誘発する気配を漂わせていたということだろうか。メイは何かを察していたのかもしれない。それなら話しておくべきだろう、誤解を解くためにも。

「僕の態度にメイが何かを感じたんならさ」

「えっ、なに?」メイの表情に困惑の色が混じる。「心当たりでもあるの?」

その顔は、ホントは知りたくないってこと?

「心当たりって言うか・・」一瞬の迷いが言葉足らずにさせる。「それは、彼女がいたからではなくて予選敗退を引きずっていたからだよ」

「え? どういうこと?」

案の定だ。君は訳が分からんって顔になってる。でも幸いな事にメイの表情から硬さが消えたようだ。始めた話はちゃんと伝わるように努めよう。僕は初めてメイに出会った時のことから話すことにした。

「今でも覚えているよ。僕が着任の挨拶をしているとき、メイはちょっと遅れて事務室に入ってきたよね」

「そうだった?」あの日を思い出すように君は空を見るような目になる。

「その時ね、思ったんだ。『このひとかな』って。不思議な感覚だった」

「え?」メイは一瞬驚いた顔になる。

「最初の頃は何処の人だろうって、手探りするような感覚でメイのことを見ていたんだよ。男の職場に何故女性がいるのか不思議だった」

「そんな事考えてたの」

「話す機会が増えてくるとね、最初に感じていた『このひとかな』っていう思いが次第に『このひと』に変わって、そして突然、メイが大切なひとだってハッキリ自覚するようになった」

君は何かを考えているようだったが、やがて押し出すように言葉を口にした。

「それなら、言って欲しかった・・・」

 

僕たちを追い抜いて行った車はもう見えない。道の両側は原生林がどこまでも続き、濡れた路面がヘッドライトに切り取られて漆黒の闇の中に浮き上がっている。単調なエンジン音とボディを叩く雨音の流れる車内に、僕を意識している君の気配が満ちている。打ち明け話をするために設えられたような状況だ。

 

「あのね、メイ」

「うん」何かを察したメイの声が僅かな緊張を孕む。

「ホントはもっと落ち着いてから、例えばふたりで暮らし始めてからでも話そうと思ってたんだけど」

話を切り出したものの、まだ躊躇いがあった。その分だけ間があいた。

「北見に来る1ヶ月くらい前かな、僕の友達のグループと友達の彼女のグループとでキャンプに行ったんだ。その中に気さくに話せる女の人がいてね」

「うん・・」

メイの身構える空気が伝わってくる。

「キャンプの後その人に、個人的に会えないかって連絡したんだ。でも全滅だった。電話で当たり障りのない話はできても、会うことは叶わなかった」

「・・」メイは前を向いたままだ。

無言は不快の現れだろう。さっさと済ませたいし、話を続けて良いのかも分からない。不安が頭をもたげ話は手探りになる。

「可能性は無いんだって分かってきた頃だよ、北見に来たのは。何処かで踏ん切りを付けなくてはいけないって考えていた」

メイは小さく小さく頷いていた。一つ一つ確かめるかのように。恐らくメイはその相槌に自分で気付いていない。

「僕に、彼女がいるように見えたのは、それが原因かもしれない」

「そう・・」相変わらずメイはこちらを見ない。

僕の不安は一層膨らみを増す。

「やめようか、こんな話」

「いいの、続けて・・」

 

ふいにエンジンの音が半音下がった。アクセルに乗せていた右足から僅かに力が抜けたようだ。体が勝手に反応している。

「僕の中でメイが大きくなるのは早かった。けど、困ったことに後ろめたさも同じように大きくなっていったんだ」

「後ろめたさ?」

うん、と頷いてから、罪悪感と言ってもいいかもしれない、と付け足した。

「僕は北見で運命のひとに巡り合ったんだ、ちゃんとしなきゃって思うよ。大切なひとと向き合う時は真っ新な自分でいたかった。安全策なんて要らないし逃げ道も残しておきたくない。それなのにあの時の僕は、二股をかけているような、手のひらを返すように女性を乗り換える奴なんだって、そんな自己嫌悪から抜けられなかった。はっきりと終わりにしなかったのがいけなかったんだと思う」

「・・・」

「おかしいよね、付き合ってた訳でもないのに」

いったい僕は何を話してるんだろう。

「メイのことを大切にしたいって思うほど、高いところから僕を見下ろしているもう一人の自分が、今のお前にはメイを好きになる資格なんかないって非難するんだ」

「・・・」

「だからね、きちんと終わりにしないと前へ進めないと思った」

「考え過ぎよ」強い口調はすぐさまつぶやきに変わる。「そんなの・・」

「そうかも知れない、今ならそんなこと考えずに真っ直ぐメイに向き合えば良いんだって思える。でもあの時は割り切れなかった」

「・・・」

「あの時に選択できる道は幾つかあったと思う。今話してるようにメイに全部打ち明けるか、過去のことは忘れてしまうか、けじめをつけてから改めてメイに向き合うかだった。僕は最後の道を選択した。外の方法はメイに失礼だし侮辱しているようにも思えたから」

「・・・」

「まず自分のことを整理しよう、メイに向き合える自分になろう、それからメイに向き合おうって、そう思った」

「私の気持ちも確かめないで?」

「え?」

「私の気持ちも確かめないまま帰っちゃうんでしょ? それがあなたの選択?」

「それは・・」こんな形の反撃があるとは思いもしなかった。たしかに僕の出した結論には君の気持ちは反映されていない。

「僕の選択がベストだったかどうかは分からない。後の祭りで空振りに終わる心配もあった。でも、メイはきっと僕の呼びかけに応えてくれると信じていた。信じるしかなかった」

「・・・」

「もしあの時こんな話をしていたら、メイは平気でいられた? 嫌な気持になったんじゃない? メイは『私のことは忘れて』なんて言い出しかねないし」

「んん、どうだろう・・」

「話してしまえば僕の気持ちは楽になるけど、その分メイの心の負担になるって、あの時は考えていた。そんなことは絶対避けたかった」

「・・・」

「そもそもこれは僕の心の問題だから、無かったこととしてメイと始めれば良かったのかもしれないね。でもメイに嘘はつきたくなかったし・・」

 

話は膠着状態になっていた。

相変わらず雨脚は激しい。メイはヘッドライトに照らし出されて煙ってるような路面を見つめている。僕もワイパーの向こう側に視線を走らせながらこれまでの話を思い返していた。車内にはボディを叩く雨音とタイヤがはじく水音だけが流れていた。

 

やがてメイは、私ね、と言ってから言葉を飲み込み、少しの躊躇いの後に話し始めた。

「あなたには彼女がいるんだなあ、このまま何もないまま、ホントに帰っちゃうんだなあって思ってたのよ。それでね・・」切った言葉で意を固め、それから一気に吐き出した。

「もうこれで終わりなんだ、終わりにするんだって、そう決めて見送りに行ったんだよ」

今度は僕が驚く番だった。

「そんな気持ちで・・」

「・・」君は声にならない声とともに頷いた。

「気付いてあげられなかったよね。ごめん。 ホントに、ごめんね」

「うん、いいよ。仕方のないことだもん」

「あの時の僕は後で電話しようって決めてはいたけど、列車を待ちながらどうにもならない後悔で一杯だった、取り返しのつかない大間違いをしたんじゃないかって。だからね、メイを見た時はとっても嬉しかった、あのおにぎりで僕は希望をつなぐことができたし、僕たちは大丈夫だ、メイは待っててくれるって確信できた」

「私、電話は来ないなって思ってた。それまでの様子から考えてね。だから電話があった時は、本当に信じられない気持ちだった」

「驚かせた僕の方も心臓がバクバクだった。断られたらどうしようって恐怖心が拭い切れなくて、心を強く保つのに必死だった。でもあの時僕は、すでに本気だったよ」

「私は、これで終わった、って思ってたのに、あなたは、これから始まる、って考えてたんだね」

今更ながら突き付けられた真実がとても脆く感じられ、これまでの出来事が奇跡に思えてくる。

「・・メイの気持ちを思うと申し訳なさで一杯になるし、僕の電話に応えてくれたことには感謝しかない。終わりにならないで良かったって心からそう思う」

「・・、 ・・」メイは小さくため息をついただけで無言だった。

 

メイは相変わらず前だけを見つめている。この無言が何かを意味しているようで、僕はその重みを推し量っていた。

「ありがとう・・」僕に言えるのはこの言葉しかなかった。「辛い思いさせて・・ごめん・・」

愛しさと申し訳なさと嬉しさとが胸の中で音を立てて渦巻いて、自分の感情がどこにあるのか分からなくなっていた。

言葉では伝わらないものがある、まして僕の稚拙な表現力では。それはメイの困惑した様子を見れば明らかだ。それでも言葉を恃みとして伝えねばならない歯痒さは胸の痛みを伴うものだった。伝え切れないもどかしさが喉の奥に苦みとなって残っている。言葉は重ねるほど嘘っぽく響き、尽くすほど虚しくなるばかりに思えた。

無意識にメイの膝に置いていた左手に力が入る。メイの手がその上にそっと置かれた。

 

拙い話の中から少しでも真意を汲み取ってくれることを、メイの心に染みを残しただけに終わってないことを今は祈ろう。時間はかかっても何時かは僕の真意がメイの心に届くことを信じて。

 

黒々と横たわる原生林と漆黒の闇のずっと向こうに、無数の小さな煌めきが細い帯のように連なっているのが見えた。雨は小止みになっている。苫小牧の街までもう少しだ。

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂ければと。