通勤ラッシュの波が引かないうちに仕事に出発する車が加わり、収容能力を超えた首都高はその機能を麻痺させている。責任の片棒を担いでいる僕の車も、少し進んでは小休止する動きを繰り返していた。出発をもっと早くすれば、と悔やんでも後の祭りだ。そもそも遅くなる原因を作ったのは僕なのだ。
「忘れ物、ないよね?」
メイの気持ちを目の前の渋滞から逸らしたい、そんな思惑が働いていた。
「うん、大丈夫よ」
後部シートのバッグを一瞥したメイは、動こうとしない車列に向き直ると、たちまち困惑した顔つきに戻った。「いつもこんなに混んでるの? 間に合う?」
運転経験のないメイでさえ気を揉んでしまう酷い混雑に、姑息な方法など通用しないようだ。都会の渋滞に嵌るなんて、初めてなんだろうしね。
「あ、うん大丈夫だよ、もう少し行くと流れるから」
これまでの経験では環状線を離れれば流れていたのだ。けれど目の前の現実は今の言葉が楽観的に過ぎると警告を発しているように思えて嫌な汗が出る。根拠の乏しい予測が往々にして外れるのはありがちな話だとしても、この場合は何と答えれば良かったのだろう。流れて欲しいと願うことしか出来なくて、悪い予感《今日がいつも通りとは限らない》を振り払うのに苦労する。頼むからいつも通りに動いてくれよ、胃がシクシクと痛みそうだ。
「夕べは起こしちゃったよね。」昨夜のお詫びを込めつつ、それとなく体調を訊く。「まだ眠い?」
この後に控えているフライトが気になるけれど、それは口にはしないでおこう。下手に訊くと妙な暗示をかけてしまいそうだし、忘れているならそれが一番だった。それなのに僕はまたしてもやらかしてしまったらしい。。
軽く頭を振りながら「ううん、大丈夫よ」とやんわり否定したメイは「でもね・・」と言って僕を見据える。
不自然な言葉の途切れに思わず反応してしまった僕が
「ん?」
と問いかけた時だ。
「びぃっっくり、したわァ」
手ぶりを交えて目を瞠ったメイは、今しがた驚いたかのような声を出した。
掛け値なしに驚いた様子に、僕は素直に謝るしかない。
「そうだよね、ホントにゴメン」
「突然ガバッ! ・・ですものね」メイは正面に向き直りながら言い放つ。「あれは、目も覚めるっしょ」
「あ、いや、悪かった。起きてると思ったんだ」
「真夜中よ、寝てるでしょ普通。ホンットに驚いたんだから」
力の入った《ホンット》にグーの音も出ない。
「そだな、ごめんよ」
「何が何だか混乱するし、どうしていいか分からないし」メイはその時のことを思い出してるようだ。「もう、減点よね」
「え?」意味を掴めず一瞬戸惑う。「減点? 免許みたいに?」
「そ、減点。心臓が止まると思ったくらいなんだからね・・」
ハイ、済みませんでした。驚かせたことは心から謝ります。
そしてホントに申し訳ないけど、その時の情景を思い出すと僕はとてもほのぼのと温かい気持ちになってしまうんです。重ねがさねゴメンよ。
言い訳にしかならないけど、目の前で寝ているメイが10時間もしない内に帰ってしまう現実を、僕はどうしても消化できずにいたんだ。帰したくなかったし、そんな事できないって分かっているけど、苛立って暗い情感が湧いてくるのを抑えられなかった。そんな葛藤を抱えたまま朝を迎えて、明るく「おはよう」なんて言える訳ないよね。すべてを委ねている寝顔と静かに上下する胸の辺りをさ、やり切れない思いで眺めていたら、そしたらメイが動いたんだ。
抱き締めずにはいられなかったよ。まるで羽交い絞めだったけれど。
◇
夜中に目が覚めた。
フットライトの灯りにぼんやり浮かぶ壁の模様が自宅ではないことを告げ、昨夜遅くなってからチェックインしたことを思い出す。テレビで見たことのある47階建て高層ビルの真ん中あたりで寝ている不思議さが、現実味を欠いた認識を引き起こしていて目の前の事実をうまく呑み込めない。拠り所を求めて周囲の様子を窺い耳を澄ます。外部から遮断されている空間は落ち着いた佇まいでとても静かだ。カーテンの閉じられた窓の辺りは全体が闇に沈んでいて夜明けがまだ遠いことを示唆している。
確かめるように隣に目を遣ると、メイを包んでいる掛け布団の胸のあたりが規則正しくゆっくりと上下している。手を伸ばせば触れるところにメイがいる。その意味するところがじんわりと沁みてきて、紛れもない現実であることに感謝したくなる。
暗がりに目が慣れてくると闇に紛れていた細部が幾分明瞭になり、柔らかな寝息をたてる横顔に匂うような質感が漂い始める。それは微かな灯りを反射して生命の輝きを際立たせ、僕の心の内側に新しい生命を宿してゆく。息苦しさを覚えるほど愛しい女性(ひと)がいる、守るべき人がいることは、強さと優しさを内包した鮮烈な自覚を脳裏に刻み付けずにおかない。贈り物のような時間が流れていた。
伸ばしかけた手が途中で止まる。
メイに触れたい。メイの頬に触れた僕の手を通して、その胸の奥深くに眠っている無意識のメイに触れたい。身体中の細胞が全部メイを求め、考え方も心の在り様も何処を切ってもメイのことばかりが溢れていた。
メイを知りたい。メイの心の奥底まで知りたい。絶えず揺れ動きながらも決してメイから外れない僕の心と同じものが、メイの中にもあることを確かめたい衝動が熱い塊となって込み上げてくる。
どうかしている。今夜は特に。
近い将来、ほんの数年でいい。そこに向かう想像力を働かせれば自分を律することなど難しくないと思っていた。でもそれは昨日までだ。今は考えることが苦痛でしかない。あまりに少ない残り時間も、誤った抑制で失敗した過去の経験も、すべては火種となって胸の内側を焼いてゆく。想像は想像でしかなく将来を約束できる訳ではないのだ。今を大切にしなければ、思い描く将来など絵空事でしかない。
メイ、僕は君を帰したくない。メイも同じ気持ちであって欲しいと心の底から願う。何のこだわりもなくそれができたなら、どれほどいいだろう。
分かっているよ、こんなのは我が儘に過ぎないって。
分かっているけどもう一度、帰ってしまう前にもう一度だけ、メイの温もりを確かめておきたい。メイの心の機微に触れることができれば、それで次に会える日まで耐えられるから・・。
滾る思いを抱えながら、冷めた後頭部は明日のフライトのことを忘れることができない。東京までのフライトで酔ってしまったメイを、寝不足状態にして飛行機に乗せる訳にもいかないだろう。僕は勝手にジレンマに嵌り込み、逸る心の扱いに手を焼く。どうして呉れよう。衝き上げる思いの強さに圧し流されそうだ。感情と理性の天秤は感情側へ傾き始める。
細心の注意を払い、限りなく静かにメイの体温が漂う距離までにじり寄る。
近付けばさらに寄りたくなる衝動が思いの外強く、際限がないことを思い知る。メイと僕を隔てる距離がゼロになったら、僕はその時、何を思うのだろう。
気付けばメイのまぶたが目の前に迫っている。鼻がぶつかりそうだ。
至近距離にあるメイの寝顔に《僕のものだ》との思いが強くなる。その寝顔に向け、起こさないように小さな声で呟いていた。
《これからはずっと一緒だ。俺から離れるな》
メイの息が掠れて "yes" と囁いてるように聴こえる。
yes・・、yes・・、そして yes ・・・。
ゆっくりと繰り返される囁きに、呼吸を合わせて胸深くに吸い込む。いつしかメイの yes が僕の胸一杯に満ちて血管に潜りこみ、血流に乗って身体の隅々に行き渡るまで飽くことなく吸い続けた。
夜が明けてからのことが頭を離れない。メイが帰ってしまうなら明日など来なければいい。今夜が永遠に続くならそれで世界が終わっても構わない。僕の手で羽田まで送るなどクソ喰らえだ。常識的な行為が、いまはとても理不尽に思えて仕方なかった。
ようやく会えたのだ。これまでの苦しみを二度と味わいたくなかった。もう離れないで欲しい。例え一時的だとしても離れなければならない状況がとても辛い。否応なく迫る制限時間が重苦しく圧し掛かり、耐え難い息苦しさに身じろぎをした。
そのときメイがもぞもぞと動いた。
《起きてる!》
考えるより先に身体が勝手に動いた。弾かれたように君に覆い被さり、そのまま思いっ切り抱き締めていた。メイは驚いたようにピクンと跳ね、小さく "んん・" とうめいて目を開ける。
遠く離れてしまうメイの温もりを、今はこの手に掴んでおきたい。誰でもないこの僕の軀の下で、驚きと期待が交錯した瞳で僕を見つめているメイを、放したくなかった。
起こしてしまった、という考えは抽斗に放り込んだ。僕は "メイ・・" と言ったきり、言葉にならない声を出していた。
《帰るな、東京に残れ、会社なんか辞めろ、このまま俺と暮らせ・・》
胸の中では口に出せない言葉が渦巻いている。声に出して強く言えば、あるいはメイの気持ちは動くのだろうか。突き進みたい気持ちの一方で、必死で制止している何かが胸の裡にあった。そいつは優等生ぶって僕に説教してくる、メイの心に困惑というしこりを残してしまうぞ、と。
頭の片隅ではとっくに結論が出ていた。と同時に、胸底で熾火のように燻ぶっていたもどかしさが、業火のように燃え盛って別の結論を求め始める。
切羽詰まった思いで荒っぽくなった僕の動きを、そっと包み込んだメイは不思議な陶酔と安息の世界へ運んでくれた。
◇
「減点かあ」罰則は願い下げだよ。「取り戻せるのかな、それって」
「この後の状況次第よね」君はなかなか手厳しい。
「あの時はね・・」と助手席を見ると、メイはどこまでも続く車列を恨めし気に眺めている。これでは減点の取り消しは覚束ない。ため息が漏れそうになる。「夜中に目が覚めたら、眠れなくなっちゃって」
「それで私を起こしたの?」半ば呆れたような響きがあった。
「しばらくメイの寝顔を見てた」
「え?」こちらを向いた眼が丸くなっている。
「なかなか可愛らしい寝顔だったよ」
「そんなところ・・」メイは照れたような目つきになってそっぽを向く。声は小さくなり最後まで聞こえない。
「ずっと見とれてたら、明日の夜はもう一緒じゃないんだって、当たり前だけど急にそう思えてきて」昨夜言えなかったことが今なら言えるかもしれない。
「・・・」メイの表情から柔らかさが消え、困惑が取って代わった。
「そしたら・・」目の端に映るメイの様子に、続く言葉は喉の奥で固まる。
「うん、、」
メイの表情には寂しさより悲しみの色が濃く滲んでいた。その先は言わないで、僕にはそう言ってるように見えた。
そうだよね、メイだって同じ気持ちを抱いている。殊更に強調して再認識する必要などどこにもない。口に出してしまえばメイの心に解消できないしこりが残る。そのまま離れ離れになってしまう事態だけは避けたかった。昨夜言葉にできなかった思いは、そのまま胸の裡に沈めておこう。
「そしたらメイが、もそもそって動くからさ」僕の口から出た言葉にメイの表情には柔らかさが戻る。「あ、なんだ、起きてたのかって思うじゃない」
「だからって」安心したような口籠るような話し方だった。「普通は寝てる時間よ、真っ暗だし」
元のメイに戻っていて少しホッとする。これで良かったのか、僕には解らない。
湿っぽくなりそうな雰囲気を変えようとして、僕はおぼろげに温めていたプランを話し始めた。
「ねえ、今度は僕が行くよ、そっちに。ドライブしない?」
「ドライブ? 車はどうするの?」
「フェリーで行くか、レンタカーになるかな・・」
「どっちも大変よねぇ・・」
どうしたものか・・君は妙案を思いつかずに言葉が途切れる。東京でのスケジュールがちょっと過密だったことの反省を踏まえて僕は提案した。
「それでね、こんどは二人だけでゆっくりしたいって考えてるんだけど、どう?」
「うん」メイはまだ決めかねている様子だ。「ゆっくりするのはいいけど、あまり負担をかけたくないな」
「うん、ありがと。僕も無理をする積りはないよ」
それから僕は考えていたルートのプランを幾つか話した。北見を起点として網走・斜里方面へ右周りするか、旭川・帯広方面へ左回りをするか、ループを描くように回ることを考えていた。メイが案内してくれるなら、北見周辺で終始しても構わないとも思っていた。
「それ、何日くらいで回る積りなの?」
「3泊くらいかな」
「そう、なら大丈夫かな」メイは少し安心したように言う。「それでも、くれぐれも無理は嫌よ」
「心配ありがと。無理のないように計画するから、ね」
「うん」
メイの声には明るさが戻っていた。
◇◆◇
首都高の渋滞にこれまでの経験則は通用しなかった。羽田に到着した時には釧路行きの搭乗手続きはとっくに始まっていた。
急かされるようにしてチェックイン・カウンターへ向かって並んで歩く。
「歩くの、早いんだね」僕は感心して言った。
「必死なだけよ。こんな時だから・・」
メイの表情には必死というより引き締まった凛々しさが窺える。こんな状況でも君の振る舞いは素敵なんだな、と見惚れてしまう。こんな時に馬鹿言ってないで、って笑われそうだから言わないけどね。
「それにしても」メイの声がして僕の神経がピンと張る。どこかぼんやりしていた僕にメイが何か言っている。
「胸を張って歩くのね」
虚を突かれた格好の僕は一瞬戸惑ってしまった。
「え? あれ? そうかなあ・・」トボケたけど図星だった。
メイは感じないのかな、すれ違う男たちが君に視線を投げて過ぎて行くのを。そしてついでに僕をちらりと見て行くのを。
メイ、君の真っ直ぐな歩く姿は颯爽と呼ぶのが相応しい。それが急いでいるせいばかりではないのは、周りの反応を見れば明らかだろう。
君の動きは皆んなの視線を捉えて絡め捕り、身動きできなくしてしまうんだ。気付いてないのは君だけらしいけどね。エスコート役の僕が前屈みの姿勢で歩く訳にはいかないよ。
普段味わうことのない高揚した感覚で足元への注意が散漫になり、何回かメイの靴を蹴ってしまった。
「あまりぶつけないでね、この靴、色が落ちなくなっちゃうから・・」
言いながら時計を見たメイは「ああ、大変」と慌ただしく搭乗手続きに走って行った。
メイの提示するチケットを確認したカウンターの係員は、受話器を取って何処かに連絡している。もう締め切ってしまったのだろうか、後ろで見ている僕まで緊張しそうだ。
間に合いますように、そう願う一方で、もう一人の不謹慎な僕は、乗り遅れた後のシナリオを考えていた。ぽっかり空いた一日をメイと二人で過ごす楽しみを。
東京駅から皇居へ歩いて向かい、その周辺を散策しよう。歩き疲れたら眺めのいい喫茶店でコーヒーを頼もう、東京タワーからミニチュアの街並みを見下ろすのもいいかもしれない。そうだ、羽田からなら横浜も近い。
その時には沢山たくさん謝らないといけないね・・。
急いで戻ってきたメイの顔には安堵の色があった。
「乗せてくれるって、良かった」
「そうか、良かった」ホッとして口をついて出た言葉に偽りはなかった。予定通りに帰れるのだから。けれど釈然としない恨めしさが残ったのも紛れもない事実だった。
「ごめんね、すぐに行かないと」メイは僕から荷物を受け取ると、「待っててくれてるらしいから」と言った。
「うん、気をつけてな」
「色々ありがとう。またね」それだけ言うとメイは搭乗口へ急いだ。
搭乗ゲートでチェックを受けて中へ入ったメイは、姿が見えなくなる前にこちらを振り向いて手を振る。飛びっ切りの笑顔だった。僕は両手を大きく振り返していた。
ぽっかりと空く一日のプランは幻に終わった。僕の心にぽっかり開いた穴が余計に大きくなった。
◇◆◇◆◇
帰したくなかったメイは慌ただしく帰ってしまった。羽田からの帰路、一人ぽつねんと運転している目に青い空がのんきそうに映る。呆気なかった。
心の真ん中に大きな穴が空いてしまったのに、夏を感じさせる空は眩しいくらいに輝いている。この空のどこかにメイを乗せた飛行機が飛んでいる。
君は寝ていて知らないだろうけど、"二度と離さない" って言ったら "yes" って応えたんだぞ。ポツンと浮かんだ昨夜の言葉を思い返し、もう一度呟いてみた。誰も聞いてないのに小さな声しか出なかった。
淡いベージュの靴に付いた幾筋もの黒い跡は落ちるだろうか。
減点を増やしてしまったね。取り返すのは次に会う時までお預けになるけど、必ず取り返すからね。
あの頃って、いつ頃? ―― 始まりはこちら。