あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

ナチュラル

明るく澄み切った空が、僕たちの上にどこまでも広がっている。抜けるような青空って、これだなと思う。空気の一粒一粒がまばゆい青さを湛えていて、弾ければ輝きの奔流が溢れ出そうだ。

躍動するエンジンの響きとタイヤが拾う路面の感触が、ハンドルに巻いた滑り止めを通して指先に伝わり、腕の血管を這い上った何かが『このまま進め』と中枢神経に直接語り掛けてくる。この空の下を歩いてゆけば出来ないことなど何もないと思えた。

 

「気持ちのいい空ね」

助手席の背もたれから身体を浮かせたメイは、フロントガラス越しに空を見上げた。自然と伸びをする姿勢になり胸が反る。やや上を向いた顎の白いラインが眩しい。

僕の車にメイが乗っている。胸を熱くする思いが程よい緊張感を生み、冷静さを補完してアクセルに乗せた右足に抑制を利かせてくれる。

メイ、君は特別だ。

「深呼吸でもしたくなるね。どこかに停めようか?」

「ううん、まだ大丈夫よ」

応えるメイの顔は確かに元気そうだ。それでも昨日の今日だから無理はさせたくない。

「ホントに? 無理してない?」

「ありがと」メイは明るい声で応える。「今日はもう大丈夫よ」

メイの顔色の良さに甘えて先へ進むことにした。ただし早めの休憩は心掛けよう。

 

大月ジャンクションで中央高速の本線から逸れて富士吉田線へ入ると、道幅は半減して片側1車線の対面通行になる。ずっと前方に豆粒のように見えていた対向車は、予測を許さないほどの勢いで近付き、ものの数秒で遥か後方へ飛ぶように消えて行く。いつになく早めのアラートが頭の隅に点灯した。これはきっとメイを乗せている効果に違いない。『信頼されている』という思いが胸の裡をじわりと温かくする。速度は控えめにしつつ流れには逆らわない走行を心掛けることで、アラートとの折り合いを付けることにした。

 

ジャンクションを分岐してからしばらく走った頃だ、これまで道路の左側に迫って続いていた山並みが一瞬だけ途切れた。

「?!」

引き付けられるようにそちらを振り向いたメイは、自分の見たものが信じられないといった表情でゆっくりと僕を見た。小さく開いた口は言葉を出さないまま閉じるのを忘れられている。ようやく独り言のように呟いた声は、受け容れ難い現実を目の当たりにしたような不安にも似た響きがあった。

「ふじ・・さん・・?」

《さあ、考えてみよう》目で応えた僕は敢えて黙っていることにした。この辺りまで来ると所々に開けた稜線の隙間から、富士の山頂付近が見え隠れする。もう少し先に行けば全容が見えてくるけど、例え山頂付近だけだとしても、気持のよい青空を背景にした富士の雄姿は心躍るものがある。

もう一度見えたとき、メイの表情から不安は払拭されていた。

「富士山だ・・ ねえねえ、富士山でしょう?」声は半分裏返っていた。

はしゃぐメイは見ていて楽しい。僕は楽しい気分そのままに太鼓判を押す。

「うん、富士山だよ。もう少し行くと麓の方まで見えるからね」

良くできました、と言いたいほど浮き立つ僕の気持ちとは裏腹に、不思議なものを目にしたような表情を浮かべてメイははしゃぐのを止めた。

「え~?? でも・・」と何か言いたげに口籠る。

でも、って何? あれは正真正銘の富士山だよ。僕にはメイの変化が不思議だった。

「どしたの?」

腑に落ちないといった様子で、メイはその理由を口にする。

「富士山って、静岡県じゃなかった?」

「ああ、そうか」謎が解けたというか、僕はホッとしたような声を漏らした。勘違いが微笑ましくも思える。ここから《山梨県》という案内板はあったけど《静岡県》を示す案内板は見ていない。写真にしろ銭湯の絵にしろ静岡側から見た構図が圧倒的に多いからね。浮世絵までがそんな感じだった気もするし。ここは少し説明が必要だったかな。

「想像通り、ここは山梨県駿河湾から見た写真や絵が有名だから富士山は静岡県って思い込んでる人が多いけど、富士山の半分は山梨県側にあるんだよ」

「え? そうなの? 半分も?」知らなかったらしく本気で驚いている。

「それでね、いま僕たちは山梨県側の富士山を見ている」

そうなんだ、と言ったメイにどこか安堵の色が漂う。「私の友達がね、裾野市に住んでるの。富士山が目の前って言ってたし」

「そだね・・」富士の南側に広がった街だったかな。「確かに目の前だ」

「そこって静岡県でしょ」メイは自分に言い聞かせるように言った。「隣は富士市だって聞いてたし、もうてっきり富士山は静岡県って思ってた」

「良かったね、勘違いしたままじゃなくて」

「こっちに来なければ、ずっと思い込んでたかも知れないわね」

誰もが知ってる山だとしても北海道に住んでる人にすれば遠い話なのかもしれない。

少しばかり興味をそそられた僕は「もしかして、北見の人は皆んなそう思ってる?」と訊いていた。

「どうかな、訊いたことないな」

「帰ったら訊いてみなよ、皆んなに」
「え? 皆んなに?」
メイの表情に照れたような恥じらいが混じった気がした。
「それでね、半分は山梨県だってこと教えて上げたら?」
「んん、ちょっと・・」
メイの言葉にいつもの歯切れがない。さっきの表情と関係があるのかもしれない。
「何か都合悪い?」
「恥ずかしいような気もするな」
ビンゴ、らしい。
「そうか、そういうものかもね」
恥ずかしいの意味が、勘違いのことなのか、東京行きがバレてしまうことなのか、何となく察しはつく。ハッキリさせる必要もないだろう。

 

河口湖インター近くまで来ると山並みが途切れて突然視界が開ける。高架になっている高速道路はこの辺りでは一番高い位置にあり、しかも走行車線の左側には視界を遮るものが何もない。文字通りの一大パノラマだ。左前方に鎮座している今日の霊峰は、何も纏わず、霞んでしまうこともなく、足元までその全容を見せている。富士山が僕たちを歓迎している、抜けるような青空と併せて僕にはそう思えた。

息を呑むというのだろう。しばし声を出すのを忘れていた。

「ねぇ・・」声を掛けようとして左を見ると、メイもすっかり心を奪われているようだ。

「・・・・・」しばらくの間、メイはずっと無言だった。

そうとなれば車の走行音をBGMにして極上のクルーズを味わうことにしよう。僕は話し掛けるのをやめてラジオのスイッチを切った。

 

◇◆◇◆◇

 

帰りが遅くなって大月近くまで来た時には暗くなっていた。車を走らせながら "気の利いたレストラン" のありそうな所を考えてみても何も思いつかない。この辺りに大きな街はありそうもなく、リサーチしてこなかったことを悔いていた。談合坂SAは型通りのものしかなかったと思い出して素通りすることにした。

「そろそろお腹空いてきたよね。レストランでもと考えてるんだけど、この辺りには無さそうなんだ・・」

「まだ大丈夫よ。私なら何でもいいよ。気にしないで」

「ラーメンとか定食みたいなものでも大丈夫?」

「もちろん、普段よく行ってるしね」

「ありがと。もう少し先へ行ってみるか・・」

とは言ったもののアテなどなかった。空きっ腹は "早くしろ" と急っつく。八王子まで行けば開いてる店があるかな、と考え始めた時、レストランのありそうなホテルが暗闇に浮かんでいた。助かった ―― と思った。

 

入って驚いた。夜も遅い時間なのにほぼ満席なのだ。辛うじて待たずに済んだものの案内された席は入口近くだった。この際贅沢は言えないだろう。それに外はすでに真っ暗で何も見えそうにないから、条件はどこの席でも同じだも思えるし。

「席があってよかったね」僕は椅子を引きながら言った。

「ええ、ラッキーだったかも」と言った君は受け付けの方を見ている。

「え?・・」僕もメイに釣られて受け付けに顔を向けた。僕たちの後ろに並んだカップルは、どうやら空席待ちになってしまったようだ。

「滑り込みセーフだったのか、今日はついてるのかも・・」メニューを広げながら「富士山にも歓迎されたようだし。長旅、お疲れ様。お腹空いたね・・」と言いつつメニューを眺めた。そこにはもう一つの驚きが待っていた。

食事と呼べそうなものが見当たらず、どれもこれも酒(ワインやカクテル)を愉しむための上品なおつまみといった趣だった。どうやらディナータイムは終了で、ナイトラウンジになっていたらしい。

「ねえ、これ・・」と顔を上げると、メイも驚いた顔をしている。「全部、お酒のおつまみね・・」

「うん、そのようだね・・どうする?」

「私は大丈夫よ、これで。 あなたは?」

良かったあ・・心底ホッとした。この先で店を探そうとしても多分無理だったろう。君の心遣いが嬉しく身に染みる。

「うん大丈夫だ。じゃあこの中からお腹にたまりそうなのを選ぼう」

僕たちはソーセージ、オムレツ、サラダ等々を選んで分け合うことにした。それからワインも少々・・。なんとか腹の虫を黙らせることには成功した。

 

◇◆◇

 

 

ナチュラルがいいって、君は言ったね。

もちろんだよ。異論などあるはずもない。自然体でいられるなら、それがいいに決まってる。誰しもがそうありたいと願っている。

でもね、状況がそれを許さない場合もあるだろうし、特定の条件が重なる時は慎重な考慮を要するとも思う。

例えば僕たちのように、頻繁に逢うことが儘ならない上に、大きな変化が予測される行為においては。

互いの気持ちや考えが同じ方向を向いていたとしても、生じた結果に接したときに些細な行き違いは必ずと言っていいほど起きるよね。そんな時、直接逢って確かめ合えるかどうかはとても大きな問題になる。それが大切で微妙な時期ならなおさらだろう。

 

あの時の別れは、同じようなことが原因だったんじゃないかと思う。

同じ痛みは繰り返したくない。

だから、メイの不安は直ぐにでも和らげたいし、悩み事なら共に解決策を探したい。何日かかってもメイの背に手を添えて話しを聞きたい。

それが叶わないって分かっているから、不安や悩みの種になる要素は出来る限り避けて通りたいし、取り除いてしまいたいんだ。

 

直ぐに駆けつけようにも、それは叶わない。どれほど急いでも一昼夜待たないと北見にはたどり着けない。その一日の距離は、メイの心にはどのように映っているのだろう。メイと僕との間にある物理的な距離が、僕の行動にブレーキを掛かてしまうのをメイは気付いているだろうか、解っているだろうか。

メイの気持ちは僕の最重要案件なんだよ。何時でもどんな時でも。だから、一人で抱え込んで心細い思いをしているメイを想像すると、僕はそれだけで尋常ではいられなくなる。

そんなの取り越し苦労だってメイは言うかもしれない。けれど僕はどうしても、どうしても一日の距離が持つリスクを軽く見積もることは出来ない。

 

メイはきっと、その辺りの事情を十二分にわきまえた上で覚悟も決めているのだと思う。ナチュラルはその証左なのだ。青臭い理屈を並べている僕は、メイの目には子供っぽく映っているよね。そんな時のメイは遥かに大人で、僕が駆け上がるのを何時も待ってくれている。ホントにごめん、面倒くさい性格で。分かってるんだよ。

その時僕は手を取り合って喜びたい。何もできなくても、例え足手まといだとしてもメイの側から離れたくない。一緒に居たいのだ。遠く離れた場所で手を拱いているだけなんて、とてもじゃないけど受け容れられる訳がない。

 

僕たちはきっと、こうした機微に触れる問題をたくさん抱えているのだと思う。それらを話し合える時間が欲しい。

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。