「東京には何時頃に着くの?」君は僕に尋ねる。
「えーっと」到着時刻など気にも留めなかったので俄かには思い出せない。「明日の夜になるよ」
乗船券を買うときに見た時刻表をなんとか思い出す。
「9時か10時ってところだったかな」
「随分かかるのね」
「そうだね、ターミナルも違う場所になるらしいし」
「どういうこと?」
「苫小牧に来たときとは違う会社のフェリーだから、到着する埠頭も違うらしい」
「大丈夫なの? 東京だよね?」
「うん、東京港には間違いないよ」
◇◆◇
観光地は寄らなかった。絶景も要らなかった。
「また明日ね」とか「今度の日曜日に」って約束できる二人なら普通にしていること ―― 足の向くまま街を散策してショーウィンドウを覗き、コーヒー飲みながらおしゃべりを楽しみ、腕を組んで雑踏の中を歩き、映画を観たり音楽を聴いたり、ラーメン屋に入ったり、終電を気にしたり、時々喧嘩したり ―― そんな他愛ない日々の積み重ねを渇くように求めていた。メイと僕に決定的に足りないことだった。
この数日で不足は補えたのだろうか。『ふたりで、ゆっくり』は本当にゆっくりできたのだろうか。慌ただしく過ぎてしまったようで、何か忘れ物をしている感覚は拭えないままだ。走り抜けてきた風景は輪郭が曖昧で殆ど覚えていない。たぶん上の空だったのだ。今更ながらメイの顔ばかり見ていた自分に呆れてしまうけれど、メイはどうだったのだろう。
◇◆◇
ドライバーは車で乗船するようにとアナウンスがあった。
次に会えるのはいつになるだろう。別れの時が近づくに連れていつも同じ不安に悩まされる。どう考えても1ヶ月以上先になるのは必至だった。離れ難い切ない気持ちをお互いに隠しながら耐えているこの時間は、数日分を凝縮したような濃密さで1分1秒が切実だった。出航まではまだ少しの時間がある。駆け込めば良いのだ。アナウンスは無視しようと決めた時、準備中のタラップが目に留まった。
僕は「ちょっと待っててね」と言いおいて歩行者用乗船口へ向かい準備作業に忙しい係員に尋ねた。
「車を載せた後、ここへ降りて来れますか?」
「ここは乗船口ですが」係員は戸惑ったような顔で僕を見た。下船しようとする人など居ないらしい。それでも状況を察したように少し考えてから言ってくれた。
「ええと、大丈夫ですよ。乗船券は必ずお持ちになって下さい。それから乗船時刻には遅れないようにお願いしますね」
親切な対応が嬉しい。僕は微笑みながらお礼を言いメイの元へ急いだ。
「先に車だけ載せてくる。待ってて、降りてくるから」
「うん。慌てないでね」
乗船口を兼ねた小さな待合所にベンチは数脚しかない。そこに君を残して車を停めてある場所まで走った。ふたりに残された時間は1時間弱になっていた。
船内での移動に少し手間取り下船するまで思った以上の時間が掛かってしまった。残り時間が気になってくる。
「ごめん、ちょっと掛かった」なるべく明るく振舞っても「うん」と応える君の顔は心なしか寂し気だ。僕は所在なげに動いた君の手をとって「ありがとう」と言っていた。君は無言でコクリと頷く。その目を見れば肩を抱き寄せずにはいられない。
「すぐにまた、会えるよね」
「・・・」君はまた小さく頷き、左手にバッグを提げたまま僕に抱きすくめられる。
メイだってこれから北見まで帰る。気掛かりと心配とで思わず腕に力が入る。抱きしめるほどに押し返してくるしなやかな弾力が嬉しい。そこには強さを秘めた慎ましさがあり、深いところから湧いてくるメイの生命力があった。もっと強くもっと深く、僕の腕がメイの生命を宿している身体を忘れないようにしておきたかった。
「ちょうど良い列車はあるの?」僕は抱きしめたまま訊ねた。
「う~ん、分らないよ」
「釧路駅に寄って時刻表を見てくればよかったな。昨日だって駅前まで行ったのにね」
「大丈夫だよ、なんとかなるっしょ」
こんな時、おんなは強いなって思う。
「駅まではどうやって行く?」
「タクシーがあるよ」
見れば数台のタクシーが昼寝でもしているように停まっている。
「列車の時刻も分からないから、もう駅まで行った方が良くないか?」
「ううん・・」君はかぶりを振って言う。「見送る」
「嬉しいけど、メイの帰りも心配だ」
「うん、だけど、見送りたい・・」
僕は抱きしめている手に一段と力を込めて君の耳元に囁いた。
「アリガト」その後の言葉は続かなかった。
歩行者の乗船を促すアナウンスが何回か流れた。もうこれ以上は引き延ばせない。先ほどの係員もこちらを見ている。タイムリミットだった。僕は君のくちびるを指でなぞってからタラップに向かった。
船の別れは苦手だ。デッキのフェンスから身を乗り出しても手は届かないし、大声を張り上げなければ話もできない。映画に見るような情緒のある雰囲気には現実は遠かった。
僕たちは互いを見つめることしか出来ないでいた。僕は開いた右手を胸に当て、祈る思いを込めてからその手をメイに向けて振った。君は受け取るような仕草をしてから手を胸に当て、頷いてその手を振り返した。何かが繋がったと感じた。少しの辛抱だよメイと呟いたけど、半分は自分に向けて言っていた。
不意に人の気配を感じて振り向くと、見知らぬ人が近寄ってきた。
「奥様ですか」
夫婦に見えていたのだろうか。警戒心よりも幸福感が勝って正直に応えてしまった。
「いえ、まだなんです。これからですね」
「そうですか、綺麗な方ですね」
途端にこそばゆくなり、表情が崩れてしまうのを止められない。照れながらありがとうございますとつぶやいた。知らなかった、メイを褒められると僕までがこんなに嬉しいんだってことを。
「お幸せに」
言い残して去っていく背中に向けて自然と会釈していた。
船が動き出す。この瞬間も苦手だ。船の動きに合わせて君はゆっくりと歩いてくれるけど、徐々に引き裂かれる思いは拭いきれない。
いいよ、もう追わないでいいよ。伝えたいのに、見えているのに、届かない距離がもどかしく、僕はめちゃくちゃに手を振る。それ以外に何もできない。
メイは今日中に帰れるんだろうか。途中でトラブルに遇わないだろうか。北見の寮まで送ればよかった。どうにも出来ないから、どうにもならない事で堂々巡りしていた。今夜は長い夜になりそうだった。
◇◆◇◆◇
東京港に着いたのは午後10時を回っていた。到着したのは新たに造成された埋め立て地のようで埠頭の周辺は更地が広がっていた。暗いうえに道路案内も未整備で進むべき方向が定まらない。仕方なくトラックの後をついて走るしかなかった。首都高入り口が見えたときはホットして確認もせずに入ってしまった。逆方向だった。一旦降りて反対方向路線へ向かい、気を取り直して走り出した。遅い時間帯だから2時間もあれば帰れるだろう。
安心すると同時にメイのことが気になりだす。昨日のことなのに、無事に帰れるだろうかと心配を始めた自分に気付いて "バカだねぇ" と笑っていた。
翌日になってようやく電話で尋ねることができた。元気なメイの声を聞いて心底ホッとする。
「タクシーの運転手さんにね、1万円で北見まで行ってくれませんかって交渉して乗せてもらった」
しっかり者なんだね、君は。
あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。