あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

慎重と苛立ち

小さな異変は初めからあったように思う。

何時もの心弾ませるメイは影を潜めていて声にも張りがない。何処か上の空だし、チグハグな印象がいつまでも拭えない。こういう時の電話は表情が見えない分、苛立ちの原因になる。

体調でも悪いのか虫の居所のせいか、或いはもっと別の要因か。

問い質そうとした、あのさ、にメイの声が被った。

「私たち、やめよう」

「え? なに?」

意味を掴めずにいる僕に、君はもう一度同じことを言う。

「私たち、やめよう」

「・・・」息が途中で止まり、それきり喉が詰まる。

あまりに唐突で、語釈通りに飲み込めない。

メイは意を決したように話し始めた。

「遠いし、お金はかかるし、なかなか会えないし・・」

一つひとつの言葉に嫌な汗がジワリと滲む。心臓は過剰に反応しているのに現実味は希薄で絵空事のようだ。

「何の話だよ・・」

軽い受け応えを装っても、意識のずっと隅っこがメイの意図を感知していた。

「無理だよね、私たち・・。 だから、やめよう」

やめよう、の語尾が上がっている。まさか同意を求めてる? この僕に? 冗談じゃない、できる訳ない。

「よく分からないよ、『やめよう』ってなに? 何か問題があった? 誰かが僕たちのこと反対してるの?」

「そうじゃない!」

ピシャリとした言葉にメイの決意が見える。

「だったら、なに?!」

信じたくない僕も強い口調で返していた。

「そうじゃないよ」繰り返した言葉は弱々しく、懇願の色調が滲んでいる。「私ね、自分で決めたんだ、そうしようって・・」

「だから、何が原因で『やめよう』って結論になる?」

「だって会えないっしょ、遠くて。会うことが簡単じゃないんだよ私たち。時間もかかるしお金もかかるし休暇だって簡単じゃないでしょ」

「そんなこと・・」解ってたことじゃないか。

「会いたい、話したいって思っても、無理っしょ遠いんだから。すぐに会いたい時だってあるのに、我慢しなきゃならない」

「メイだけじゃない・・」

「そうよね、ふたりして我慢してる」

「・・」

「私が会いたいって言ったら、無理してでも来るでしょ」

「少しくらいの無理なら、するでしょ誰だって」

「だから余計にさ、言い難いし、段々ホントの事が言えなくなるんだよ。少しじゃないからね、私たち」

「・・・」

「そんな無理、長く続くわけない。 だから・・」

「一緒になろうって話したよね。それに今の状態を長く続けようなんて思ってない」

「分かってるよ。これまでの事、考えて、それでやめようって言ってるの」

「毎日でも会いたいさ。だけど出来ないよね。一緒になるって約束したから、それで我慢できてるんじゃないか」

「うん、そうなんだろうって思ってる」

「だったらメイも・」

「私はあなたとは違うわ」

「何が違うの? 同じじゃないか、同じことで悩んで」

「同じじゃないよ、私はあなたほど強くなれない」

「僕だって強いわけじゃない。将来に希望があるから、それで」

「それで無理を重ねてしまうんでしょ。続けられなくなるよ、いつかは」

「・・・」

「いつか二人とも疲れて、互いの存在が重くて気まずくなって、それで連絡もしなくなるんだ。そんなの厭だよ」

「なんで、何故そんな風に考えるのかな。遠いのも、なかなか会えないのも、初めっから分かってたじゃないか」

「初めた頃とは違ってるわ・・」

「時々会うのじゃダメなのか? 約束があっても」

「約束しててもさ、側にいて欲しい時って、あるでしょ?」

「あるさ。今だってメイの顔見て話したい」

「それなのに、居ないんだ。いっつも」束の間、言葉を探す気配がした。「ようやっと逢えても、次に会うまでの時間がもっともっと長く思えて。 こんな事、いつまで続ければいいんだろうって考えて、辛くなって。私、何やってんだろって」

「一緒になるじゃないか、将来。そしたらずっとそばに居られる」

「そう将来なんだよね、いまじゃない・・」メイは何かを考えるように一呼吸置き、ねぇ、と続けた。「将来っていつ? 来年? 再来年? それとも、もっと後?」

「それは・・」決めてなかった。

メイと一緒に居るだけで、すべてが輝いた。それだけで楽しかった。僕はその幸福感に酔っていて、メイも同じだと思っていた。今はそれがすべてで、先の事までは考えられないでいる。互いの心を寄せ合ってゆけば、機が熟すように形になるものだと思っていた。

「具体的な時期を決めてた訳じゃないけど」数年後、漠然とそう考えていた。

「いいのよ、慌てなくても」

「そうじゃないよ。近い将来って考えてはいたんだ・・」

「あなたが一人で考えてたんでしょ?」

メイは僕の考えに NO を突き付けている。それは理解してもらう努力が足りなかったということか? だとしたら、きっと僕の落ち度なんだろう。

「そうだよ、僕の考えだ・・」けれどそれなら何故、訊いてくれないのだ。自分たちの将来について問い質すことも話し合うこともないまま、一方的に無かったことにしたいなんて、僕にはメイの気持ちが理解できないよ。「はっきりさせたいと思ってるなら、訊いてくれても良かったんじゃないか?」

「そんなこと、できる訳ない!」

「なんでさ。自分たちの将来じゃないか」

「なんでって・・」困惑気味な様子が伝わってくる。「あなたは男だから、そんなこと言えるのよ」

「男も女も関係ないだろ」

「ちがうわ!」強い口調だった。「先が見えないとね、宙ぶらりんの気持ちがずっと続くのよ。会えないから余計にね」強かった口調は次第に翳りを帯びる。「とってもさ、とっても辛くなる。分かってもらえないかも知れないけど・・」

「分からないよ!」思わず語気が強くなった。そんな理屈は分かりたくもなかった。「会えないのは僕だって辛い・・・ でもさ・・」

「あなたと私は、ぜんぜん違うんだわ」

突然何の話だ?

そんなの「当り前じゃないか。別の人間なんだから」

「そういう意味じゃないわ」

「なら、どういう意味なんだ」

「なんて言うか、生活のリズムや考え方のテンポが、ぜんぜん違うのよ」

「意味解んないよ」

「あなたはね、何かを決めたり物事を進める時、周囲の状況を整えてから始めようとするでしょ。私は進めてから考えてるんだと思う」

「いいじゃないか、それで」

「あなたはね」

「あなたはって、どういう意味だ?」

「あなたは十分時間をかけて慎重に進もうとしているの。いいのよそれで。それがあなただから。でも私は違うの」

確かに僕は慎重にやって来たよ。もしもトラブルや行き違いでもあったりしたら、その修復がかなり難しくなるのは分かるだろ、こんなに離れてるんだから。そんな事態は避けたいし、メイに余計な心配は掛けまいとしてたんじゃないか。それをテンポだとか慎重だとか言われても・・。

「ずっと待っててくれなんて、言ってないだろ」

事実関係をはっきりさせようとした言葉に、メイは違う切り口を返した。

「先々の事、考えたこと。ある?」

時間軸がズレたように思え、応えが手探りになる。

「ないよ」今だって手一杯なのに。「先の事なんて、分からないじゃないかないか」

「この先もきっと沢山の出来事があるわ、二人で暮らそうとすれば余計にね」

「そうだろうな」

「それは楽しい事ばかりじゃないと思う。その度に同じような思いを繰り返すなんて、私には耐えられないわ」

「状況が変われば考え方も対処方法も変わるじゃないか。今と同じには、ならないよ」

「その時になれば、あなたはあなたで私は私のままだわ」

「メイだって少しは考えるだろ。でも必ず、メイの希望が叶う答えを見つけられるよ」

「私、あなたが思ってるほど強くないんだ。それにね、」

それにね、と言った後しばらく無音が続いた。どうした、何かあったのか? 焦れていた僕はメイの言葉を待ちきれず先を促していた。

「それに、どうしたの」

「それに、私、」逡巡しているらしく、また途切れる。「こんな事を話してる自分が許せない。急かしているようでホントに嫌な女だなって思う。このままだと自分を嫌いになってしまうわ。自分を嫌いになったら、そしたらあなたには会えないよ」

重かった。このまま続けさせてはいけない気がした。

「ちょっと待って。考え過ぎだよメイ。メイがメイの事信じないでどうする。自分を嫌ったりしちゃいけない」

「ありがと。こんな時でも優しいんだね」

「メイはメイの考えを、僕は僕の考えを話して、そうやって一つずつ答えを探して、少しでも理解が深まって行けばいいんじゃないのか」

「分かってるんだ、それが普通なんだよね。でも、ずっと考えてきたんだよ。会えなかった時間ずっとね。このまま続けたら私きっとダメになる。だから今、話してるんだよ」

「・・・」言葉が出なかった。

昨日今日考えた結論ではないのだ。他の事なら百歩でも譲れるだろう。でもメイの出した結論は受け容れられない。絶対に認められないよ。

「私、あなたが思ってるほど強くないんだ。いまだって苦しいし」

「だからさ・・」

「分からなくてもしょうがないよ、それはたぶん、無理なんだと思う。けど、やめたいって気持ちは本心だよ」

「僕だって・・」辛いさ。分かって欲しいのはこっちだよ。何故自分一人だけ辛いと思うのだ。「もう少し時間を呉れないか。いきなりこんな話で混乱してるし・・」

「ごめんなさい、一方的だってのは分かってる。それはホントにごめんなさい。でも私、決めたんだ、やめようって」

 

いつまでも終わらない話し合いだった。互いに納得できる着地点など無いことはふたりとも感じ始めていた。繰り返される話に、次第に口数が少なくなり、黙り込む時間とため息が多くなっていた。

 

 

一体どうしろと言うのだ。

僕は何をすれば良かったのだ。

向かう先のないドロドロとした憤怒が胸の中で渦巻き、やがてその矛先が自分へ向かうのを感じる。左手の中で小刻みに震える受話器を見つめ、右手に持ち替えて耳に当てる。通話切れを報せる乾いた音が無表情に素通りしてゆく。もう一度受話器を見てからゆっくり下ろした。

長く深いため息が臨終のように流れた。

何も考えられない。

ただ、ひたすらに虚しい。

 

様々な思いが目まぐるしく行き交い、二人で過ごした映像の断片が渦巻く騒音に圧し流されて行く。眩暈を覚え、デスクに両肘を突いて顔を覆う。一向に止まぬ嵐に為す術はなくじっと耐えるしかない。

今しがた起こったことを呑み込めない。客観視することで現実から逃避していないと狂い出しそうだ。何が起こったのか、騒がしい思い出たちの中から探そうとした。

 

メイは『やめよう』と言い、僕は『嫌だ』と言った。

所詮、話し合ったところで合意できる可能性など皆無なのだ。最後通告を受理するかしないかの不毛な打ち合わせでしかない。

別れを決意した女と離れたくない男では、どちらが優位であるか考えるまでもない。圧倒的な立場の差は、起死回生のチャンスが入り込める隙も無なかった。僕の説得はことごとく跳ね返され、メイの優位性が強固になるだけだった。

 

メイは『さよなら』と言ったのだろうか。最後の方の記憶はすっかり飛んでいる。僕が『さよなら』って言えなかったことだけは確かだ。

僕たちはホントに終わったのだろうか。

メイが笑っているところを、もっとずっと見ていたい。もっと話したい。一緒にラーメンも食べよう。映画にも行こう。キャンプだってスキーだってドライブだって一緒に行こう。函館山の夜景も見よう。そうだ東京タワーも一緒に登ろう。

メイが笑ってくれるなら、僕はどんな事でもする。

メイと一緒にずっと笑っていよう。

 

脳髄が痺れたように震え、会えない、という現実が突然押し寄せる。

この先何十年も、死んだその先も、メイに会うことはない。

夢を語る唇にも、煌めきを宿した瞳にも、スキと書いた指先にも、僕を優しく包んでくれた笑顔にも。

メイ! メイ! メイ! メイ! メイ!!

胸の中で膨れ上がる叫びが、骨と肉と皮膚を引き裂いて飛び出しそうだ。

いっそ狂ってしまいたい。

 

何を話したのか記憶はおぼろげで曖昧だ。

君は一人で何を考えていたんだ? 相談することもなく、一人で考えて、辛くなって、それでやめてしまおう、なかったことにしようって思ったのか? 結論に飛びつく前に、その辛さを何故僕に訴えてくれない。

君の胸の奥底に宿り、君の心を支配している黒い塊の正体は何だ。

苛立ち? 不満? 幻滅? 不安? 嫌悪? 歯痒さ? 哀しみ? 不信?

僕はそいつと対峙したい。

 

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。