あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

富良野プリンスホテル

狩勝峠を思い出すわぁ」

メイがポツリとつぶやいたのは、街の灯りが遠くに見えた時だ。

ありきたりな景色も心の在り様で受ける印象は大きく変わる。ハンドル操作の合間に垣間見えたのは、遠目にもはっきり判る煌めきだった。

「奇麗だね」

肩寄せ合うように瞬くそれは、小さくとも生命の輝きに満ち、見る者に確かな明日を信じさせてくれる。あの灯りの一つ一つに家族があり生活があり希望がある。

今夜はきっと魔法が掛かっている。

近い将来僕たちも、暖かな灯りを点すことができるよね。だから、できれば、心ゆくまで眺めていたい。

「残念だけど、ゆっくり見てられないから、代わりに見といて」

「うん、いいよ。 後で教えてあげる」

心地良いメイの受け応えに、僕は図に乗ってもうひと捻り加えてみる。

「分かり易く頼むよ。僕を小学生だと思って」

メイは一瞬、"何を言ってるんだろう" って顔になった。それから小さく頷いてゆっくりと前に向き直る。

「それは、無理かも」言葉を切ってから、おもむろに僕の方を振り向いた。「小学生にしちゃ、ひねくれてない?」

「うわあ、心外。こんなに素直で純粋な男を捕まえて、ひねくれ者はないでしょう」僕はお決まりのパターンで応じる。

「あら、ひねくれ者はみんなそういう反応をするものよ」

なかなか手厳しい反撃を受け、条件反射のようにメイに視線を走らせる。メイは正面を向いたままだが、その横顔からは楽し気な様子が窺える。頼もしいカミさんになりそうで、妙なこそばゆさを覚える。

切り返すことを忘れていた僕に、メイは、どうしたの? といった風情で覗き込んできた。

 

旭川を経由して帯広方面に向かっている。日が暮れてから数時間が経過していた。なるべく早めに何処かに落ち着きたかったけれど、今日の宿には心積もりにしている場所があって、できればそこまで辿り着きたい。それは大きな三角屋根が特徴的なホテルで、スキーワールドカップ選手の宿泊先としてテレビで紹介されていた。東京を出発する前にそのことを思い出し、快適そうだから行ってみようと考えていた。

ただ問題があった。放送されたのは1ヶ月以上前である上、漫然と見ていたのでホテル名も地名も忘れてしまっていた。番組が写した地図では北海道の中央部だった(と思う)から、帯広あたりかと推測していた。ワールドカップを控えているから行けば分かる、程度の認識だった。

 

夜も遅くなり市街地も抜けてしまったらしく、商店も民家も人の気配までも無くなっていた。こんな状況で三角屋根のホテルを探せる訳もなく、代わりのホテルを見つけるのも至難の業に思えた。このまま走り続けて朝を迎えても僕一人なら構わないけど、メイにはゆっくりさせてあげたかった。

いっそUターンして旭川まで戻ろうか、と考え始めたとき、街灯だけがともる薄暗い直線道路のずっと向こうに、街灯とは明らかに違うものがぼんやり点っているのが見えた。電話ボックスだ。その灯りは昏い海原に浮かぶ灯台のように輝いて見えた。助かったと思った。

電話ボックスは反対車線側にあったが、当たり前のようにハンドルを右に切り、逆走姿勢のまま電話ボックスの脇に車を停めた。細かいことはこの際脇に置いておこう。

「ホテルの番号を調べて予約してくるね。ちょっと待ってて」

そう言い残して車を降りようとすると、君は心配そうに訊いた。

「大丈夫なの? 今からでも」

「うん大丈夫さ。ダメなら他のホテルを紹介してもらうから」

能天気に聞こえるように元気な声を出した。メイの不安を取り除くためだ。ホテル名も分からないのだから、不安がないと言えば噓になる。でも何とかなる、何とかするしかない。

 

コインを投入して番号案内に掛ける。メイが心細気に窺っているのが見える。

《はい、番号案内です》

「ホテルの番号を知りたいんですが」

《はい、何というホテルでしょう?》

「それが、全国展開している大手ってだけで、ホテル名が判らないんですが」

《それでは住所は分りますか?》

「帯広あたりかなっていうだけで、住所も分からないんです、済みません」

《そうですか・・》案内の女性も困った様子で少し間が空く。

僕は近在の大手ホテル名を、片端から読み上げてもらおうかとも考え始めた。

《何か名称の一部でも分かりませんか? あるいは特徴とか》

特徴と言われて気付く。そういえば、

「あのう、もうすぐ開催されるスキーワールドカップで、選手の宿泊先になるって聞いてますが」

《スキーワールドカップ開催地のホテルですね。少々お待ちください》

通話が保留音に切り替わる。

何とかなりそうな感触で、内心ほっとする。親切な人で良かった、今夜の魔法はまだ有効らしい。

車の中で心配そうに待っているメイと目が合い、指を輪にして "大丈夫" って合図を送る。メイの顔が少し安心したように微笑んだ。

保留音が消えて、女性の声が戻ってくる。

《お待たせしました。お探しのホテルは富良野プリンスホテルではないかと思われますが。スキーのワールドカップ富良野で行われますから》

「そうですか、富良野プリンスホテルですね」ホテル名に聞き覚えがあった。「ではそこの番号を教えて下さい」

《はい、申し上げます》

迂闊にもメモ用紙を忘れていた。僕は必死で覚え、念のため番号を復唱する。確認ついでに富良野までの距離も聞いてみた。初めて聞く地名だったからだ。

「済みません、いま車で旭川から帯広に向かってるんですが、富良野って帯広より近いんですか?」

《あ、ずっと近いですよ。帯広までの半分もありませんから》

「そうですか、良かった。色々ありがとうございました」

助かった、と思った。近いことは何よりの味方になる。

直ぐにホテルへ予約の電話を入れた。夕食もルームサービスも終わっていたが、明日の朝食は確保できた。僕は大まかな道順を尋ねながら、メイに向かってガッツポーズを示した。

 

「お待たせ」

車に乗り込みスタートさせながら言った。

「宿、取れたよ。良かったあ。ちょっと心配だったんだ。空いてるかってことの外に、ホテルの名前も場所も疎覚えだったから」

「そうだったの?」嘘でしょ、と思ったらしい。「どうやって分かったの?」

「うん、ワールドカップをやる場所のホテルって言ったら調べてくれた。北海道の人は親切だなあ」

「そうでしょ。覚えといてね」安心したのか、ちょっぴり自慢気だ。

「宿は富良野にあるプリンスホテル。テレビで紹介されたのを見て、行ってみようって思って」

「ふうん、富良野ね」

「でね、その親切な人に富良野の場所を訊いたら、帯広のずっと手前だって教えてくれた。それでそこに決めたんだ」

「あら、私に訊いてくれても良かったのに。これでも一応北海道出身なんですよ」

「おお!」思わず大きな声が出てしまった。「そうだよなぁ、なんで忘れてたんだろう。 って言うか思いつかなかったんだろう」

「疲れてるんじゃないの?」

「いやあ、全然!」

「だって、朝早くから走ってるんでしょ?」

「心配ありがとう」でも大丈夫さ。「もう少しだからね。それに疲れてないし」

疲れてないのは本当だ。それどころか気分は充実して心地良さを覚えるほどだ。このまま何処までも走り続けられるけど、出発前の予測より大幅に遅れている。僕はメイの方が気掛かりだ。

「遅くなっちゃってゴメンね。もっと早く着くつもりだったんだけど」

「そうなのね」

メイの言葉が不自然に途切れ、正面を向いたまま何かを考えている。敢えて口を挟まない方がいいだろう。

「あのさ」やがてメイが話し始める。「話があるんだけど、いい?」

「うん、勿論」何時だってメイの話は聞いてるよ。けれど、改まった様子は何を意味するのだろう。僕は車の速度を緩めながら訊いていた。「車、止めようか?」

「ううん、いいの。走りながら聞いて」

「そう」

大きく頷きながら速度を戻し、メイの言った《話がある》と《走りながら》の両方の意味するところに考えを巡らせる。構えないで聞く方がいいと判断し、ハンドルの握りを心持ち軽くしてメイの言葉を待った。

「私はどこでも大丈夫なのよ。泊る所は」

「ん・・」

「予約してないなら、もっと手前に泊まる場所はあったわよね」

「・・・」僕は頷く。そりゃ、もっともだけど。。

「無理しないでって、私、前に言ったよね」

ど真ん中を衝いているのに、メイの声は優しい。

「言ってたね」

「あれは挨拶でも社交辞令でもなくて、私の本心よ」

「ん・・」僕は頷くのみだ。口を挟めるわけがない。

「気に入ったところがあって、私をそこに連れてってくれるのは嬉しいよ。でもさ・・」一旦言葉を切り、その後は一気だった。「朝早くから夜遅くまで走り続けて、それで疲れてないなんて、そんな訳ないよね。その前にフェリーでの長旅もしてるんだから。 疲れが原因で万一の事があったら、私、どうしていいか分からないよ。あなたが無理をしてる時って、何となく私にも伝わるのよ、知らなかったでしょ。 だから、だからさ。もっと私に相談して。今日の事だって、別なルートを選べたかもしれないでしょ。ワールドカップ会場が富良野で、遠いって事くらいは私だって知ってるもの。 あなたが無理しないでくれる方が、私は嬉しいわ」

叱られた子供同然になってしまった僕は何も言い返せない。車内に響く饒舌な走行音が有難い。道は真っ直ぐ続いている。

不思議な心地がしていた。客観的に見れば恐らく僕は叱られている。なのに胸の裡は妙に暖かで穏やかだ。心の内側が急速に解けてゆく。メイの膝に突っ伏してそのまま眠ってしまいたい。

単調な走行音が車内の静寂を打ち消している。

正面を向いたまま一度もこちらを振り向かなかったメイが、私の話はこれで終わり、とでも言うように僕を見て頷いた。車内の微かな灯りに浮かぶその面差しは、柔らかい慈しみを湛えて見えた。

メイの両手が僕の心を掬い上げ、その胸に優しく抱き留めた気がした。

大切な何かを託された思いに僕が頷き返すと、メイは安心したように正面に向き直った。僕はそれが何より嬉しい。

やっぱり今夜は、魔法が掛かっている。

 

「ありがとう」僕はしばらく走ってからつぶやいた。

「怒ってるんじゃないからね」メイもしばらく走ってからつぶやいた。

「ん・・」分かってるよ。だから心の中はこんなに暖かい。

「私の気持ち、分かってて欲しかっただけだから」

「ありがとう」僕はもう一度言った。「メイの気持ちが、全部嬉しい」

メイの心も身体も全部、メイの存在をきつく抱き締めたい。そんな欲求が沸々と湧いて止まらない。さすがに今は自重が必要で、ホテル到着を優先すべきだろう。無理は禁物と言われたばかりなのだ。

僕は叶わぬ願いを胸の奥底に潜め「あと少しで着くから」と告げた。

「安全運転、お願いね」

僕の下心など見透かされてるのかもしれない。さらに「着いたら、すぐに休もうね」とトドメを刺されてしまった。

 

特徴的な三角屋根の前の駐車場は閑散としていた。混んではいないようだ。僕はロビー入口に近い位置まで車を進めた。

長かった一日が終わろうとしていた。

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。