あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

金色のウィスキー

ベッドの端に浅く腰掛けて両手を突き、素足を投げ出した若干前屈みの姿勢で部屋の中をぼんやり眺めている。足先には室内履きが引っ掛かっていた。

先月とは趣の異なる印象を受ける室内は、シングルをやめてツインに変更したからだろう。少しばかり広くなった部屋は、その効果を最大限にアピールしようと調度の色合いや配置を変えてあるようだ。向かい側には天井まで届きそうな大きな一枚ガラスの窓があって、足元の駅前大通りを行き交う車や旭川の街並み、遠くの山裾まで望むことができる。陽が落ちて数時間経った現在(いま)はその窓も厚手の遮光カーテンを閉じていて、部屋に入り込もうとする街の明かりやざわめきをシャットアウトしていた。

窓の右コーナーに置かれたフロアスタンドの柔らかな灯りが、モノトーン柄の絨毯の上に片側を膨らませた楕円を描いている。

静かな夜だ。

夜に余韻があるのなら、たぶん今夜はそう呼べるだろう。

微かに届くシャワーの音は囁きにも似て心地よく、俯き加減な目には何も映らなくなっていた。

 

 

「テレビも点けてないの?」

シャワーから上がったメイは、その手にドライヤーを携えている。

「うん、静かなのもいいと思わない?」シャワーの音を聞いてたなんて言えない。「余計な音は要らないかな、いまは」

「北見も静かだよ負けないくらい。知ってるでしょ」

「勿論憶えてるよ」あの頃の事は鮮明に覚えてる。「けど、野付半島に行ったり摩周湖根室の方廻ったりが忙しくて、北見の街は競馬場と飲み屋くらいしか知らない。今思えば勿体なかったな」

「1ヶ月もいたのにね」思うところがあるような残念そうな口振りだ。「またおいでよ、案内してあげるから。北見の街は逃げないよ」

「嬉しいね。雪のある季節にも行ってみたいと思ってるんだけど」

「それなら雪の降り始めか、まだ雪の残っている春先がいいかな。いきなり真冬はキツイと思うから」

「それもそうだね」メイに案内される楽しさに思いを巡らし始めた時、メイの手にあるドライヤーが目に留まった。「メイ、髪を乾かすんじゃないの」

「あ、そうだ」デスクを振り返りフロアスタンド近くまで歩いたメイは「ねえ、ドライヤーを使ってもいい? ここで」とデスクのコンセントを指し示した。

 

椅子に座ったメイがシャワーで洗った髪を乾かし始め、僕は再び部屋とメイを眺める世界に戻る。現金なもので部屋中に溢れるドライヤーの音はまったく気にならない。それは潮騒のように僕の身体を素通りし耳まで届かないらしい。人間という生き物の持っている自己矛盾は、今夜はそのまま肯定したい。

抽斗のついたデスクはあと二人くらい座れそうなほど長めで、前の壁にはデスクサイズに合わせた大きな鏡が嵌め込まれている。デスクに並んで置かれたサイドボードには小型冷蔵庫が収められ、ボード上には馴染みのないウィスキーのミニチュア瓶まで並んでいた。

 

街中の散策、楽しい食事、気の置けない会話、昨日も洗った髪。同じように繰り返される日常のありふれた光景も、旅の空という非日常の中であれば、どこか高揚した雰囲気を孕む。何より、同じ時間と場所を二人で共有していることが、純粋に嬉しい。

鏡の前で後ろ姿を見せているメイと、鏡の中でこちらを向いたメイ。完璧に調和した動きを眺めていると、ポツンと閉じた空間の中にメイと僕の二人しかいない事実が皮膚を通してジワリと沁み込んでくる。もう、何も要らない。

ふいに胸の底から湧き上がるものがあり、心のひだに違和感なく溶け込み始める。唐突な感情の揺れに戸惑いはしたものの、僕はそこに懐かしさが混じっているのを見つけた。そしてそれは、メイに出逢った時からずっと胸の奥で眠っていたものだと気付かされる。この安らぎにも似た穏やかさの正体を僕は知らない。これまでに経験したことのないこの妙な感覚を何と呼べばいいのか分からなかった。

 

ふと手を止めたメイが僕の視線に気付き、鏡越しにこちらを見ながら少し声を張った。ドライヤーに負けないように。

「面白いの?」

「うん」頷いた僕も大きな声を出し、鏡の中の視線を捉える。「なんだろう、見ていて飽きないよ」それはきっと、小さな子供が大好きな絵本を手にした時と同じなんだよ。

「だって、お姉さんがいたんでしょ?」

「う~ん、まるで記憶にないんだ。ドライヤーも化粧も・・」

「え? そうなの?」信じられないって顔だった。

「姉さんのなんて、見る気にならんでしょ普通」

「誰のも同じじゃないの?」

「ぜぇんぜん」僕は大袈裟に頸を振る。「メイのは特別さ。ずうっと眺めていたい」なんだか嬉しいし、と僕が応えると、

「ふうん、そういうものなのかな」呟いたメイは、髪の手入れに戻った。

 

 

ドライヤーが止まると耳の奥がシンとなり、一瞬の静寂をおいてリズミカルな拍動が鼓膜の奥で鳴り始める。物音のしない世界がこんなにも饒舌だとは想像したこともなかった。

メイがドライヤーのコードを束ね始めるのを見て、落ち着かない気分になる。いま胸の中に湧いている感覚を伝えなければならない気がした。

「ねえメイ」気付いたら話し始めていた。「なんだか不思議なんだけど・・」

「うん?」メイは髪に手をやりながら振り向く。

「きっと緊張するって思ってた」

二人きりになったら、っていう意味は通じたようだ。

「ん・・」

「だけど、ちょっと違うようなんだ・・」

メイの顔に疑問の色が浮かぶのを見て、心は踊ってるんだよ、と話し始める。

「メイを独り占めしてるから」

「私もあなたを独り占めしてるよ」

「うん、そうだね」素直に嬉しい、もしかしてメイも同じことを・・。「それでね、メイはどうなのか分からないけど、緊張気味なのにとても安心して寛いでもいるっていう、矛盾した気持ちがこの中で混ざり合ってるのを感じる」胸に当てた手を動かしながら言った。

「そうなの」メイは得心したような表情になった。「なんだか、分かる気がする」

メイの反応が素直に嬉しい。

「ありがと」僕の顔はきっと緩んでいる。「分かる?」

「うん」メイもなんだか嬉しそうだ。

「おかしな話だけど、ずっと前から一緒に暮らしてたんじゃないかって、そんな風に錯覚してしまいそうだよ」

驚いているとも戸惑っているともつかない表情に変わったメイは、わたしも、と言って立ち上がり僕の横に腰を下ろした。

「同じように感じてたんだよ・・」

「!?」

メイの表情が僕に感染し、僕はメイの顔を見つめたまま動けない。言葉を失くしている僕の目をじっと覗いて、メイは自問するようにつぶやいた。

「これって、何だろね・・」

何も思い付かず数瞬の間が空く。

「遠い昔の・・」言葉が勝手に転がり出てしまう。「記憶なのかな」

「前世ってこと?」

「前世かあ・・」中途半端な声が漏れた。何かが違う気がするものの、適切な言葉も見つけられない。痒い所に届かないもどかしさで口が半開きのままだ。「やっぱり、遠い記憶って方が近いかな・・」

曖昧なままの僕と違って、メイの言葉ははっきりしている。

「そうよね、前にそんなこと言ってたもの・・」

「僕が何か言った?」

「前世の話をした時、怪しいって言ってたわ」

大急ぎで記憶の底を探るものの、どこにも引っ掛かるものがない。

「えぇっと、いつ?」

「北見にいた時よ」

北見にいた頃? そうか、事務室の窓辺だ。星占いの話から始まって、前世や生まれ変わりが話題になった時だ。

「ああ・・」ようやく思い出した。「言ってたねぇ・・」

あの時は数人が二手に分かれて話が盛り上がった。確かに僕は懐疑派だった。メイの記憶の良さに脱帽だ。

「今もその考えは変わってないよ。だけどね、こいつは理屈なんかお構いなしに湧き出てくるんだ」

「それって、なあに?」

適切な呼び方が分からないなら、感じてるままを言葉にするしかない。

「メイを前にすると僕の胸には不思議な感覚が湧いてくる。側にいてくれると心穏やかになれるし、嬉しくて楽しくて何でも話せて、飾らない自分でいられる。無条件に信頼してもいいんだっていう絶対の安心感なんだと思う」

「なんだか・・」メイは咀嚼するように少し間を置いてから言った。「赤ちゃんとお母さんみたいだね」

「そだね。根拠もないのに赤ちゃんが母親に寄せる絶対の信頼感は、どこから来るんだろうって考えて・・」

「それで、遠い昔に一緒にいたってことに?」

「うん、それが一番腹にストンと落ちるな」

メイは、そういうものかな、って表情をしている。僕は、それはね、と言葉を継いだ。

「メイも僕も先祖から受け継いだものを持ってるよね」

「そうね」

「無条件の信頼感が湧いてくるのは、受け継いだ何かが作用してるんじゃないかって思えるんだ」

「ふうん・・・」言葉の響きとは裏腹に、その顔には明るい兆しが射している。

「それくらいしか、今の気持ちを説明する言葉を見つけられない。それにね、こんな風に思えることが何故だか誇らしくもある」

メイは遠くを見るような目をしてから話し始めた。

「私はね・・」一度言葉を切って少し考える。「ちょっと信じてるの、前世を。あってもいいかなって思うくらいだけど」

そうだった。北見で前世が話題に上った時、メイは賛成に近い意見を言ってたように思う。そして今は、互いの存在について同じ感覚を抱いている。

「そだね・・」互いの心にあるものを素直に受け容れよう。いまなら、メイの考えも素直に信じられる。「いまは、信じていたい。メイと一緒に」

身体の中から呼び覚まされるような感覚は、確かにあるのだ。

 

◇◆◇

 

並んで座ったメイの肩越しに、整然と並んだウィスキーのミニチュア瓶が見えている。一様に10センチ程度のサイズながら特徴のあるデザインが、私を選んで、と自己主張している。水割りにしたら1杯強ってところだろう。

話しながらメイの身体が無意識に揺れたとき、トレイに載ったグラスとアイスペールに気付いた。氷は何処にあるんだろう、頭の隅にそんな考えが浮かぶ。

 

僕の様子に気付いたメイは視線の先を追った。

「可愛らしい瓶ね、ウィスキーなんだよね?」

「うん、これ全部ウィスキーだね」

「中身は本物?」

「瓶が小さいだけで中身は本物のはずだよ、メーカーの信用に関わるし・・」

「それもそだね、みんな知ってる?」

「名前を聞いたことがあるくらいかな。高くて買えないし、店でも頼まない」

それを聞いたメイは、もう一度ミニチュア瓶を確かめて、何か面白いことを見つけたようにニンマリする。そして僕を唆し始めた。

「飲んでみたら?」

「えっ?」思いもしない提案に次の言葉が出ない。

するとメイは二の矢を放つ。

「だってこんなに小さいし、私は一口だけで充分よ」

なんと大胆なと思い、でも一理あると考え直す。こんなに小さなボトルがベラボーに高い訳はなかろうとも思える。常識的には。

「こんなに小さい・・か」

うんうん、とこぼれるような笑顔で頷かれては、誘いに乗らない訳にはいかないだろう。「それなら、試してみようか」

僕は立ち上がってボトルの並ぶ場所まで行き、どれにする?、とメイに選択を委ねた。

「んん・・。 分からないから選んで」

選択権は僕に戻ってきた。どれを選んでも間違いないだろうけれど、稀に香料の強いやつがある。できればそんなハズレは引きたくない。

「さて、それでは・・」ボトルの前で指を左右に動かす。奇抜なデザインのボトルは避け、シンプルなデザインのボトルを選んだ。

「このあたりかな」クセの強いバーボンは初めから除外した。

僕はボトルを掲げてメイの同意を求め、「水割りにしようね」と提案する。

冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターと炭酸水はあるものの氷は見当たらない。辺りを見回すとアイスペールの前に案内書きがあり、エレベーターホール近くのアイスサーバーまで取りに行かねばならないようだ。

「氷は外に取りに行くようだから、氷なしにするね」

「うん、いいんじゃない」メイの楽しげな声が嬉しい。

ボトルの小さなキャップをひねってグラスに注ぐ。いい色だ。スコッチ特有の香りが漂い出す。ミネラルウォーターのキャップも開けて目分量でグラスに注ぎ、指で掻きまわした。

ちょっと舐めてみる。ハズレではないようだった。

 

「こんなものかな・・」グラスを持ってメイの隣に戻り一口飲んで「美味しくできたかも」と乾杯の仕草をする。見ていたメイは、ホントに美味しいの、と僕に確かめる。

「・・少し、頂戴」

「いいよ、けど・・」メイはあまり強くないはずだった。「大丈夫?」

「大丈夫よ、ちょっとなら・・ね?」

「じゃ、ちょっとね・・」グラスを渡そうとして思い留まった。もっといい考えがある。少し多めに口に含んでから、メイの肩に手をまわして寝かせ気味に引き寄せた。

あれ?、って表情になったメイはそれでも素直に応じてくれる。

僕は唇を重ね、琥珀色の液体をメイの口にそっと注いだ。

味わえる程度の量を、と考えたせいだろう、ちょっと多かったらしい。

ゴクリと飲む量が入ってしまった。

 

「ム~ウ~!!!」

 

口を開けられないメイは眼を大きく瞠いて僕の胸を叩く。

《いけね!》

すぐに唇を離した。口の中に残っていた液体が、慌てた勢いのまま一気に喉を駆け下る。途端に大きくむせて何度も咳き込んだ。メイも一緒になって咳き込んでいる。

「ごめん」咳き込む合間に何とか声に出す。

「うん・・」メイの声は掠れ、後が続かない。

喘ぎながら「大丈夫?」と訊けたのは少し後になっからだ。ひどく掠れた声だった。

「大丈夫よ。あなたこそ」応えたその目は潤んでいる。

何故だか笑いが込み上げてくる。喉が苦しい。

「あ~あ、涙目になって・・」ようやくそれだけ声に出す。

「あなたこそ、泣き笑いになってるよ」

僕は謝罪の意味合いを込めて両手を広げ、メイをギュッと抱き締めた。半分は照れ隠しだった。

 

僕はこの夜、とっておきの宝物を見つけた。

抗議するメイの顔がとっても可愛い ―― 食べてしまいたいほどに。

今夜のウィスキーには、金色のメダルを贈ろう。

 

 


遠い昔の恋の始まり。
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