あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

青函連絡船

函館駅に到着して列車のドアが開くと、さほど多くない乗客は待ち兼ねたようにそそくさと降りて行った。目の前の出来事に現実感を持てず、僕は座席に座ったままどこか上の空で眺めていた。

後ろの方で何かを運び込む音が響いた。車内清掃が始まるらしい。

「あ、いけね」

ぼんやりしていたことに焦りを覚え、網棚に載せてあったボストンバッグを自分の心を引き出すように下ろすと、数人の乗客と清掃員だけが残っているホームに降りた。先に降りた乗客たちのまばらな列が、ずっと向こうの通路で照明の中を動いているのが見えて、少しばかり気持ちが落ち着く。急いで彼らの後を追えば間に合うだろうし、迷うことなく連絡船まで辿り着ける。わずか数日前に歩いたホームなのに、遠い記憶のように思える。

あの日は膨らむ期待で前のめりになり、周りが見えていなかった。いまの僕はあの日の僕にどう見えるのだろう。少しは前に進めたかな、そう呟いて人影のまばらなホームを歩き出した。

桟橋を渡って流されるまま船室に入ったものの、そのまま留まる気になれずデッキに出て船尾方向へ向かう。今しがた列車を降りた函館駅を見ておきたかった。

 

 

旭川駅のホームに並んでいても、ここ数日の余韻は続いていた。確かに感じられる強い絆と互いに寄せる信頼は、あらゆる困難を撥ね除ける強さがあると信じられた。もうすぐ来る札幌方面行きの列車が、僕たちを離ればなれにするのは一時的な通過儀礼に過ぎないのだ。

ホームで手を振る君も列車の窓から手を振り返す僕も、身体中から発散される幸福感を漂わせ明日への夢をその目に宿していた。

列車が走り始め旭川駅が見えなくなっても浮き立つ心は覚めず、『僕はこの女性(ひと)と一緒になる』と世界中に紹介して回りたい夢のような気分はいつまでも続いた。

メイの笑う顔や、眠そうにトロンとした目や、美味しいと言ってすぼめる唇が事あるごとに浮かび、知らず知らず口角が上がるのを止められない。ぼんやり眺める日の暮れた郊外は、窓ガラスを鏡に変えて数瞬の間そこにいる人物を映しだす。急に噴き出す恥ずかしさに乗客の少ない列車内で身じろぎをしていた。

 

優しい夢見心地な気分に浸っている時でも、寂しさが挟み込まれる瞬間がある。また会える日に思いを馳せた時、胸の片隅に痛みに近い感覚が走った。

メイに会えるまでの待ち時間の意味合いは今日を境に変わるだろう。これまでと同じように再会の日を心待ちにはしていても、会えない日々を苦痛と感じる比重の方が遥かに大きくなる予感がしていた。。

約束できるのは常に月単位の遠い日でしかなく、そこに横たわる時間は僕を打ちのめすには充分過ぎる。無性に会いたい気持ちを抱えた心に、それはどれほどの忍耐を強いるのだろう。メイを知って強くなったはずなのに、待ち侘びる日々の試練は容赦なく僕の意志を削いでしまいそうだ。

期待と遣り切れなさで次第に鬱屈する感情が、時折ぶり返しては夢見ようとする気持ちに差し挟まれ、落ち着きが悪くなっていた。

 

札幌の市街地を過ぎて窓の外に再び夜の静けさが戻ると、見えない空を見つめている時間ばかりが着実に増えていった。

暗闇の中から思い出したように現れる街灯や民家の灯りは、一つ一つがメイとの記憶を刻みながら離れて行く道標のようで、次第に膨れ上がる喪失感に圧倒されそうになる。

『メイ、側に居てくれ』

君から遠ざかる列車の中で、遠く離れるほど鮮やかになるメイの面影と、これから始まる忍耐の日々に挟まれた心は天国と地獄を行き来していた。

 

 

ホームからわずかに届く灯りを受けて、駅舎が仄暗く発光しているように見える。外側に広がっているはずの函館市街の明かりは、駅舎に遮られてここまで届かない。僕の目は仄かな灯りを纏って沈黙している駅舎の上の広大な闇を彷徨い、深い闇のずっと向こうにメイの姿を見ようとしていた。

 

「そしたらね」

ぼんやりした頭に君の声がこだまする。

「うん、またね」

応える僕の声も頭の中でこだまする。瞬きの極端に少なくなった目は、暗闇の中に旭川駅のホームで手を振るメイを映している。静かな微笑みは揺るぎない信頼を、滑らかに動く柔らかな口元は甘い香りと調べを運んでくる。

「そしたらね」と「うん、またね」がいつまでも繰り返される。

メイが乗るのは僕より30分くらい後の列車だったよね。あまり遅くならずに帰れたのならいいのだけれど。もうすぐ日付が変わろうとしている。君はもう一人のベッドで温まっている頃かもしれない。心地よい疲れに身を委ねて、楽しかった日々を夢に見てくれるなら嬉しい。それとも僕と同じに身じろぎしながら眠れない夜を遣り過ごしているのだろうか。

この腕の中に確かに抱き締めていたメイがいまはひどく遠い。メイの滑らかな髪に触れたい。触れれば暖かいメイの現在(いま)を知りたい。

 

 

見送り客の下船を促す船内放送が何回か繰り返された後、桟橋から切り離された連絡船は孤立した状態になって暗い海水の上を揺蕩っていた。鍋の蓋を叩くような銅鑼の音が鳴り止むと、長い汽笛が響いて連絡船はゆっくりと岸壁を離れた。

「またね、メイ」

函館駅のその向こうを見ながら呟く。さよなら、は言いたくない。

 

船内放送なのだろう蛍の光が遠くで聞こえ、連絡船は徐々に岸壁との距離を開けると小さな円を描くように右に回頭を始めた。港を取り巻くように並ぶ建物や停泊中の船舶の点している灯りが大きく左へ流れる。

遠くに点在する灯りが街なのか港の設備なのか判然としない。海も陸地も闇に溶け合い境い目を失くしていた。

 

ほぼUターンに等しい方向転換を終えた連絡船は安心したように助走を始めた。頬を撫でて行く空気は冷たい。デッキに残っているのは僕だけになった。

 

 

数年ぶりに再会した家族みたいだな。メイと会った時、僕はそんな印象を持った。懐かしさと気安さが初めからあって、短期間の同じ職場経験というだけでは説明できない不思議な雰囲気に包まれていた。僅かに残るぎこちなさも打ち解けるための程よいスパイスになっていて、気付けば離れていた間の出来事を報告するように過去という時間の中を行き来しながら思い付くまま話していた。

小さい頃が病弱だった影響で小学校の体育は見学だったことや、母子家庭で父親を知らないことや、泳げないのに海が好きで同時に怖いことなど、これまで誰にも話してないことまで素直に言葉が出ていた。

メイに向き合うと身構えてない自分を発見できる。飾らず気負うこともなく素のままの自分を曝け出して、心を開いたまま呼吸ができるほど寛いでいられる。気付いてないだろうけど、メイが僕に及ぼす影響は君が考えているより多分ずっと大きい。

メイが一緒なら世界は違う顔を見せるし知らない場所にも入って行ける。そして君は無意識の内に僕の知らない世界を一緒に開いてくれる稀有な存在になり、僕は人生の宝物を手にする。

 

 

「コ」の字を左に90度倒した形の、巨大な門ともいえそうな特徴的な建造物が進行方向に二つ浮かび上がっている。幾つもの照明に照らされたそれは、紅白の横縞模様に塗られた二本の門柱に赤い梁が渡してあり、白抜きで HAKODATE DOCK と大書きされている。周りを取り巻いている建物や船が玩具のように見えるほどで、大き過ぎて距離感がつかめない。

速度を抑えられている連絡船のエンジンは、不平を漏らような振動を伝えてくる。緩やかに HAKODATE DOCK に近付いた連絡船は徐々に左へ向きを変え始めた。巨大な門に見えたのはどうやら造船所のクレーンらしく、連絡船はクレーンを遠巻きに大きく迂回していた。

 

 

HAKODATE DOCK の灯りが暗い水面に千切れて揺れている。メイと過ごした日々の情景が途切れ途切れに思い出され、千切れた灯りの合間に透けて浮かぶように流れて行く。

ふいに苦みのような感覚が胃の腑に落ちてくる。次第に胸までせり上がるそれは、ジリジリと心を炙る後悔にも似ていた。

 

メイがその胸に抱いていた想いを僕は受け止め切れなかった、そんな思いを拭い切れないでいる。メイの楽しげな様子に嬉しさで一杯になり、君の心の裡を思い遣ることが疎かになっていた気がしてならない。

メイは初めから全力疾走だったよね。スローペースな僕は君の速さに戸惑い少しばかり翻弄されてもいた。それでも最後にはふたりで歩調を合わせられたのは、着実なゴールを目指そうとした僕にメイが素直に応じてくれたお陰だ。

 

互いに想い合う状況が続いているなら結ばれることは自然の摂理だろうし、二人が自分の意志で会うという行為の積み重ねは、言葉による約束より強いと思っている。殊更に強調などしなくとも、時期(とき)が熟せば無理のない形で成就するとも考えていた。

だから急ぐまいと決めていた。ゆっくり時間をかけて、ふたりで紡ぐ歓びを分かち合いながら一歩ずつ歩めば必ず頂に立てる。メイが一緒なら僕たちはそれを成し遂げられると信じている。

けれどこの考え方はメイの目にどう映ったのだろう。結果として僕はメイにまで自制を強要していなかっただろうか。僕なりに固めていた決意が、曲解されることなくメイに届いていたことを願わずにいられない。

 

それでも、って思う。それでもだよね。

この数日のメイの言葉や様子を振り返ると、メイの心の準備はすっかり整っていた気がしてならない。そもそも日帰りできない場所で会うこと自体それなりの覚悟を強いている訳で、メイがそれを承諾した事の重大さに気付けなかった浅はかさを呪いたくなる。

一緒に過ごした3日間、僕はただメイに夢中だった。それがいけない訳ではないけれど、それだけでは何かが決定的に足りないのだ。

メイの心に思いを馳せていると、覚悟を決めていたメイのしなやかな凄味が胸奥に沁みて、軀の芯にゾクリとする痺れが走る。

人は理性ばかりでは生きられない。もどかしい思いをさせるくらいなら、時には狼になるのもいいだろう。それで何かが拓かれるなら僕は躊躇いを覚えない。

波間で飛び跳ねる灯りが、お前は信じているんだろう?、と問い掛けてくる。

「もちろん信じている」

声に出して答える。

信じ切ることでしか解決しないのだ、きっと。

いま僕の心を支えているのは、メイが見せてくれた前向きな言葉と仕草や態度だった。

 

 

函館ドックを大きく迂回し津軽海峡につながる函館湾に出た連絡船は一気に速度を上げた。不平を漏らしていたエンジンは手綱を放たれた駿馬が持てる力を誇示するかのように躍動している。これまでの遠慮をかなぐり捨てて風が吹き付けてくる。コートの襟を立て一番上のボタンまで留めた。

 

函館港を出てしまうとすべての灯りが一斉に後退し、闇が親し気に近付いてくる。周りの空気を青白く染めて一筋の帯となった街の灯りは、海岸線を縁取りその奥に蹲っている黒々とした大地を隠している。縁取りが曖昧になりやがて消えてしまうその僅かばかり上に、赤い光がぽつぽつと灯っているのを見つけた。函館山はあの辺りかと目を凝らし、ひと月ほど前の出来事を思い出す。強風のため運休になったケーブル乗り場で運よくタクシーを拾い、偶然居合わせた旅行者と割り勘で展望台まで行ったのだ。あの時は限られた時間での下山を余儀なくされ、山の頂に忘れ物をしているという思いがある。機会があるならその時は心ゆくまでゆっくりと堪能したい、メイが一緒ならどれほど素晴らしい夜になるだろう。瞬く赤い灯りが、おいでよ、と言ってる気がした。

 

 

またいつかな、冷たくなった両手を脇に挟みながら函館山に向かって呟く。

唐突に冷えた身体に甦ったのはメイの暖かさだった。暖かさに誘発されて首元に残してしまった赤い跡が眼裏に浮かび、その時の感触と息遣いまでが実感を伴って思い出される。胸の底の方から熱い塊が迫り上がって溢れそうになる。それは北見の時から胸の奥に抱えていた僕の魂と言っても良かった。

すべてはずっと前から始まっていて、今日まで繋がってきたのだ。

ずいぶんと遠回りをしてしまった。しなくてもいい回り道だったと言えるだろう。だからこそ前を向きたい。過ぎた時間への答えはこれからの過ごし方で決まるはずだ。僕は君への想いひとつを携えて、あの日この海を渡った。

 

突然の横風が身体を煽り、その強さと冷たさに全身を縮める。耳がギンギンと痛い。函館湾の荒っぽい仕打ちに悪態をつきながらも、煮詰まっていた脳みそを根こそぎに吹き払われたようで大声で笑うしかない。旭川で別れてからずっと消えなかった焦りのような感覚は清々しいほど洗い流されてしまった。たった1つを残して。

真っ白になった心の平原に屹立していたのは、あの日携えてきた熱い想いだ。僕がメイに渡せるものは、そのひとつしかなかった。

 

メイ、ごめん。

やっぱり僕は僕の生き方しかできない。それがメイにとって焦れったいものであっても、どうか待っていて欲しい。無理を重ねればどこかで破綻を招くだろう。僕は僕の進め方でメイを愛したい。そしてそれを生涯続けたい。

お願いがある。

短い期間の印象で僕を判断しないで。僕の行動も、話すことも、好みや習慣も、メイが目撃するのは僅かな断片のそれも1つの側面でしかない。もっとよく見て、もっと深く話を聞いて、もっと働きぶりや生活ぶりを知って、もっと一緒に経験して欲しい。そして信じて欲しい。君に悲しい思いはさせない。『絶対幸せにする』などと思い上がったことは言えないけれど、『一緒で良かった』と言わせてみせるから。

 

エンジンは単調なリズムを刻み続け、航行速度は高い状態を維持している。頬に打ち付ける風の冷たさは容赦がなく横揺れまで混じり始める。そろそろ船室に引き上げる潮時のようだ。

僕は決意を示し、メイは心の声に従い、二人は始まったところだというのに、胸に渦巻いているこの切なさを何と呼べばいいのだろう。

僕は少しでも前進できたのだろうか。

揺れ動いて混乱気味の心は、それでもメイと会った時からずっと温かい。

いまはそれを信じていたい。