あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

テレビのない部屋と君の部屋

午後の休憩もそろそろ切り上げる頃合いだった。あと一息で今日の仕事も終わるとあって、職場にはどこか砕けた雰囲気が漂っていた。

 

NHKのテレビで新日本紀行ってあるでしょ」

お茶を一口含んだ後で君は問いかけた。

相槌を打った僕は同じようにお茶を飲みどんな番組だったか思い出していた。

「ニュースの後にやってた番組だっけ・・」

「そう!」君の表情はさっと明るくなる。「私、あの番組好きなんだ。テーマ曲もいいし」

「ああ、確かに・・」冒頭で流れる曲は心の故郷を思い起こさせるものがある。僕は感じたままを口に出した。「あの曲は郷愁を誘うよね。それにしても渋いところを・・」

仲間を見つけた喜びを隠せない君は、持っていた湯呑みをデスクに置いた。

「見てるの?」

期待の籠った眼差しに気後れした僕は意味もなく湯呑みを口に運ぶ。積極的に見ているとは言えなかった。

「たまに目にするくらいだよ」

「そうなんだ・・」再び湯呑みを手にとった君は、お茶と共に落胆も一緒にゆっくりと味わっていた。「よく見る番組ってあるの?」

僕の勤務形態がカレンダー通りでなくなってから久しい。宿直もあるからテレビは見るというより眺めるものになっていた。

「何年か前に『青春とはなんだ』があったでしょ、シリーズ化されて今もやってるのかな。初めのいくつかは面白がって見てたよ。宿直勤務になってからはだいぶ変わってしまったな。続き物は筋が判らなくなるからね。それでもTBSでやってる寺内貫太郎一家なんかは見てる方かな。ほら、途中だけつまみ食いでも面白ければ見てられるから」

「そうだよね。仕事があるもんね・・」君は納得した様子で「NHKは見ないの?」と訊く。

「そんな事もないよ、引継ぎの前の休憩室じゃ朝ドラが点いてるし、ニュースは見るし、紅白歌合戦も・・・」

「他のドラマは?」

「あ、そうだ」そういえば見ていた。忘れた訳ではないけれど、経験したことのない環境に慣れるのに忙しくて思い出せないでいた。「今年は大河ドラマ勝海舟をやってるでしょ、あれは続けて見てたな。面白いよね。再放送もあるから見逃しても大丈夫だし」

「毎週日曜日だよね。良かったじゃない、今月は欠かさず見られて」

あれ? と思った。僕の宿泊先は知っての通り下宿だよ。

「あ、いや、泊ってる下宿にテレビはないんだ」

「え、ウソ。テレビないの?」

君の顔は嘘をつかないね、ホントに驚いた顔になってる。

「知らなかったの?」僕はそっちの方が驚きだ。これまでにも同じ下宿に泊った人がいた筈だと思うけど。「下宿だからね、高校生相手の。部屋にも食堂にも置いてない」

「全然知らなかった」全然に力が入って《ぜんっぜん》となっていた。「そうなんだ、テレビ無いんだ。勉強に差支えがあるのかしら」

ホントに《ぜんっぜん》知らないようだからついでに教えてあげよう。

「テレビばかりかラジオもない。それに誰も無駄口をきかないから究極に静かだよ」

「へええ・・、なんだか寂しそうね」

「僕も初めはそう思ってた。我慢できないんじゃないかって。でも不思議なんだけどね、寂しくないし詰まらないとも思わないよ」

「だって、何してるの? 誰もいない部屋で。勉強? 高校生と同じに」

「うん受験勉強って意外と楽しい」

「ウソ! ホントにしてるの?」

真に受けられてこちらが焦る。慌てて否定しなければならない。

「そんな訳ないでしょ」君の冗談に乗っただけだよ。「何が面白くて高校生に混じって勉強するの」

「もう・・」君の表情はホッとしたのと呆れ顔とのミックスだ。「したら、暇でもないわけ?」

最後は妙な真剣さを漂わせた顔つきになっていた。君の表情は一瞬で変わるんだね。もう、と言いたいのは僕だったけれどそれは言わないでおこう。

「暇なことは暇だね。食事の後は寝るまで何時間もあるから。けど人間って思ってる以上に柔軟性があるらしくて、どんな環境でも放り込まれれば慣れてしまうのかもしれないよ」

「そんなものかしらね。それで暇を感じなくなるの?」

「感じないわけじゃなくて鈍くなるのかな。平気になってくる。それにテレビがないだけで本や新聞はあるから暇を持て余すほどでもないよ。ああ、本ありがとね、助かってるよ」君の頷くのが見えた。「大家さん夫婦も時々話しに来てくれるしね」

「そうなのね、良かったわ」ひと安心、そんな表情になった。

ふと君の気遣いを受け取った気がした。胸の辺りが騒がしくなり、俯き加減で「ありがと」と呟いていた。勘違いじゃないことを願いながら。

「2週間ちょっと下宿生活をしてきて分かったことがある」

「どんなこと」

「テレビがないと生活のリズムを番組に合わせる必要がなくなるじゃない」

「うん」

「そうするとすべての時間を自分のペースで自分に合わせて使えるんだよね。これは経験すると分かるけど、毎日がテレビ時間に縛られない生活だから、精神的なゆとりっていうか豊かさのようなものがとても濃くなる気がする」

「濃い豊かさかあ」夢見るような表情が愛らしい。「なんだかいいわね」

君の瞳に新鮮な憧れが灯る。折角の夢を壊すようで悪いけど、ちょっと待ってね。清濁併せ持ってるのが普通の人間で僕もその端くれだ。

「それでもね、もしテレビのある部屋とない部屋を選べるとしたら、やっぱりテレビのある部屋を選ぶだろうな」

「あらどうして? 胸に刺さるいいこと言ってたのに」

勝海舟を4回も休むのは、辛いからなァ」

「そうなのね」と君は思案を始める。「私の部屋が寮でなければねぇ・・」

ん? と思う。どういう意味だろう。

「寮でなかったら、何なの?」

「見せて上げられるのにって思って」

さらりと言った君にドキリとする。

「え? ああ・・」こんどこそ冗談だよね。「そういう手もあったな、今度の日曜日に忍び込むから一緒に見るってのはどう?」

「馬鹿ね、寮には入れないわよ」

さっきの君の言葉、冗談なのか本気なのか判断できなくなりそうだ。

 

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
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