あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

棘(トゲ)

君はいつも、僕の1歩先を行く。北見を離れる日もそうだった。

君のドアをノックすることもなく帰ろうとした僕に、君は「チョット待ってよ、それでいいの? 目を覚ましてよ!」と僕の横っ面を張り飛ばしてくれたんだと思っている。

 

◇◆◇

 

あれは9月の初めだ。午後の列車で上野を発ち、列車と船に揺られてようやく北見駅に着いた時には、すでに翌日の夕刻近くになっていた。身体の奥に溜まっている疲労感が長かった移動距離を訴えている。覚悟していたこととはいえ、このしんどさは想像を超えていた。寝不足気味の顔をパンパンとはたいて、これからお世話になる職場へ向かった。

 

「疲れたでしょう」
労いの言葉で迎えてくれた課長は「皆に紹介しよう」と言うと、隣の係長に全員を事務室に集めるよう指示した。

着任の挨拶をすっかり失念していた。何も考えてない。初対面なら型通りの挨拶で無難に済ませるか、自己紹介も兼ねて冗談のひとつでも混ぜ込むか。さてどうしたものかと思うものの妙案など浮かぶはずもなく、ぽつぽつと集まって席に着く人たちを漫然と眺めていた。

ふと妙なことに気付く。まったくと言っていいほど焦りの感覚がないのだ。見知らぬ街の見知らぬ人たちに囲まれて平然としている自分を見るのは、新鮮な驚きであった。

自分の知らなかった一面が出ているのだとすると、それは旅(出張)先に於ける解放感や期間限定の気軽さに通じるものがあるのかもしれない。同じ社員という以外互いの素性が判らないのであれば、素のままの自分を曝け出して新しい関係性を築いてゆくしかないだろう。

座席の大方が埋まったところを見計らって、

「じゃあ始めようか」課長の少し大き目な声が響いた。「紹介する、明日から手伝ってもらうことに・・」

まだ何も決めてないけれど一つだけ自覚できていることがある。気の向くまま、思い付くまま、素の自分を見せてしまおう。今日はそれができるのだから。

課長の合図で立ち上がった。

「これから4週間、お世話になります・・」

型通りに始まった挨拶が少し進んだところで、数人が遅れて事務室へ入ってきた。脱線気味な話を意識しながら、僕の目はごく自然に君の姿をクローズアップしていた。

「ん? だれ?」

と思った。メイとの出会いだった。

 

職場は男ばかりというのが通例だから、翌日出勤してメイの姿を認めたときは歓びであると共に驚きでもあった。直ぐには同じ職場だとは信じられず、昨日のひとが何故ここに、と訝っていた。数日も経過すれば疑いようもなかったけれどね。同じ仕事だということが妙に嬉しい。

話す機会が増えると、心の中にメイが住み始めるのに時間はかからなかった。ああゴメン、少し違うね。僕の心は初めからメイに占領されていたように思う。

 

接していて自然体で振舞える女性に会ったのはメイが初めてだ。毎日が充実して、このまま北見に住み続けられたらと、ありもしない夢に浸りもした。メイに向かって真っ直ぐ進みたいという思いが募るのを、僕はどう対処したものか考えあぐねていた。

けれど皮肉なことに次第に強くなるその思いは、却って僕の動きを鈍くする結果になった気がする。中途半端にしていた(実際には始まってもいない)出来事が僕の心にトゲのように残っていたからだ。

タイミングとしてどうなの?

メイとの出会いを采配してくれた神様に感謝の気持ちは勿論あるけれど、もう少し時期をずらて欲しかったと恨めしくも思う。

『たった一人の特別なひとになる』

切っ掛けも理由もなく、その想いが意識の中に初めからあったように思う。

こんな感覚は初めてだ。だからなおさら、ケジメをつけたい。曖昧さのない心根でメイと向き合いたい。ただ無心にメイというゴールを見つめてスタートラインに立ちたい。

だからゴメン。もう少し、少しでいいから時間をくれないか。北見滞在中、そんな思いを抱えていた。

 

◇◆◇

 

メイを好きだ。

シンプルなこの事実は変わらない。

遠く離れてみて、心の底からメイを欲しているその強さに、改めて自分でも驚く。

今はただ、会いたい。

あんなに近くで毎日のように会っていたのに、僕は何と無意味な時間を過ごしてしまったのだろう。ケジメだとか心の整理だとか理屈を並べるより、遮二無二突き進む懸命さこそ必要ではなかったか。周辺の事柄は後から何とかすればいいだけの話だ。何が大切かは北見を離れる日のメイの行動が如実に示している。

付託されたメイの想いを継いで、次の行動へ繋げなければならない。

方法論で悩むのは止めよう。ゆっくり構えるのは今ではない。誠実さを忘れず、可能な限り速やかに僕自身の始末を終わらせよう。

過ぎた時間はもう戻らないのだから。

 

自分のことではなくメイの気持ちを最優先にしよう。この先の時間は君の心に寄り添うことに使おう。遠回りをしたけれど、いまスタートラインに立っている。

メイの時間が僕と同じ歩調で重なってくれることを信じよう。遅くなってしまったけど、僕の想いが君の心に届いてくれれば嬉しい。

 

 

電話を掛けた時、すでに僕の心は決まっていた。

メイはその電話に爽やかに応じてくれた。

それだけで十分だった。