あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

オニと鉄紺

整然と区画整理された旭川の街並みは、目標や目的を決めずに歩き回ると方向感覚を失いそうになる。まして上の空の状況ならなおさらだ。駅前から真っ直ぐ延びる大きな通りがどの方向にあるのか、常に意識しておく努力が必要だった。

例えば、駅前大通りは左側を並行に走っていて駅は後方、などの情報を頭の片隅にメモすることを忘れないようにした。メイに会う場所としてこの街を選んだのは、陽があるうちに会いたいと考えた僕の意向だ。北見まで出向いていては夕刻になってしまうし、札幌ではメイの負担が大き過ぎると判断した。僅か数時間の違いだけれど僕にはとても貴重であり重要だった。それはきっとメイも同じだと思っている。

夕暮れまでの数時間、あてもなく見知らぬ街を散策しよう。気ままな衝動買いと他愛ないおしゃべり、コーヒーカップ越しに街並みを眺めるのも、メイと一緒ならこの上なく楽しい体験になる。荷物はホテルに預けてきた。夕食を済ませてから戻ればいいだろう。

交差点を左へ折れ一方通行の細めの道を進むと、駅前通りを横切った先に広い通りがあった。驚いたことに中央の車道部分までが歩道として整備され、歩行者専用の道路になっている。両側には洒落た店舗が並び駅前まで真っ直ぐ延びているようだ。平日なので人通りも多くない。

ふたりで顔を見合わせ、どちらからともなく一番手前の店舗に足を向けていた。いくつかの店を覗いて歩くうち僕の右腕にはメイの左腕が添えられている。日常の自然な振る舞いと同じに無意識だったことが誇らしい。迷子の心配はすっかり忘れていた。

名前も顔も曖昧で存在さえ希薄になってしまう都会の雑踏と違って、この街はありのままの僕たちをそのまま受け容れてくれるようだ。

 

歩を進めるごとにゆっくりと過ぎて行く街並みは、ふたりの話の背景でありアクセントでもあった。時折見かける花やオーナメントは、他愛ない話の合間にひょっこり滑り込んできて、輝きを放ちながらメイを包んでゆく。

ふたりで歩調を合わせて歩く。ただそれだけのことなのに何故だろう、点された灯りが心と身体を温めて止まない。たぶん僕はメイに夢中なんだ。そしてたぶん、メイも。

20センチの距離で聞こえるメイの声とその狭間を縫うようにそっと届く息遣いは、布地を通して微かに伝わってくる体温と相まって、目の前の風景をお伽話の世界へと変えてしまう。こんな魔法が現実にあるなんて、昨日までの僕は信じていなかった。

 

歩調を合わせ、時折り確かめるように顔を見合わせる。運ぶ足元の敷石を数えるようにして口数少なく歩いていたメイは、何か言いたそうに僕を見上げる。

「・・・私ね」

「ん?」

一瞬の逡巡を置いて「ううん、いいの・・」と言ったメイは、両手で僕の右腕を包み胸に抱えた。

はにかむように下を向く刹那、メイの瞳に宿っていた灯りが僕の胸の裡と呼応し、大きなうねりとなって身体中に走る。同じ想いを抱いていることはこんなにも嬉しい。

右腕を引き寄せながら「うん」と頷き、空いている手でメイの頭を僕の肩に寄せる。寄りかかる姿勢になったメイの重さが愛しい。

 

歩行者専用の平和通り(そう書いてあった)は突き当たりの駅前で終わっている。左に折れれば100メートルも行かないうちに駅前の大通りに出る。迷子になる心配はもうなかった。大通りに近づいたところでメイは訊いた。

「ねえ、好きな色ってある?」

「好きな色?」

「うん、色。赤とか青とか、好みの色」

「好きな色かあ・・」多分、ある。あるとは思うが困った。「好きかどうかって色を意識したこと無かったから」考えながら上目遣いになりチラリと横を見ると、メイは僕の返答を楽しそうに待ち構えている。

「落ち着いた紫とか鮮やかなオレンジ色もいいなって思うけど、自分の服には選ばないし、状況や周りとのバランスで変わってるような気がするけど・・」

どうにも歯切れの悪い答えを返すと、メイは、それなら、と質問に変化を付けた。

「持ってる服はどんな色?」

「ジャケットやスーツなら茶系統が多いな」

「うん」メイはニッと笑って言った。「見てて分かる」

「そう?」バレていることが何故だか嬉しい。「他には若草色のジーンズとか北見で着てたレンガ色のセーターとかね」

「あの時っていえば、青いシャツも着てたわよね」

「ああ、そうだったね」数ヶ月前のことなのにとても懐かしい。「あの時はこげ茶色のジーンズも持って行ったな」

「その外にも、いいなって思う色ってあるんでしょ?」

メイの誘導尋問に複数回答もありなんだと気付かされる。一つに絞らなくてもいいのだ。

「あるんだけどね、何色って言えばいいのか、曖昧で」

「曖昧なの? それってどんな・・」

「例えば赤なら暗めで深い色とか、青なら掠れたところに白が散ってるとか」

「ふうん」メイは難問でも解いているような顔をする。

「それから赤茶けた錆の斑模様とか粘土を水で溶いて薄めたような色もね。何色って呼んだらいいか分からないよね」

「確かにそうね、中間色って言うのと違う気がするわね」

「取り敢えず中間色でいいか」自分の好みの色を初めて意識してふと思う。「今気づいたんだけどね、何色か混ざった状態が好きなんだな、きっと」

「溶けあうんじゃなくて、混ざった状態ね」

「そう、幾つかの独立した色がね」そこである色に思い当たる。「好きな色、分かったよ」

「え?なに?」

「黄緑に近いんだけど」

「・・・」

「ほら、菜の花の蕾って膨らんでくると、緑色の内側から黄色が滲み出てたような色になるでしょ。それを逆光で見ると輝いて生命力に溢れてるし、周りの空気まで染まったようになるよね」

「分かる気がするな、奇麗だよね」

言ってるメイの顔も輝いて見える。良かった、分かってもらえて。

「ねえ、メイが好きな色は何?」いつの間にかメイと呼んでいた。メイも気付かないほど自然だった。

「私のはね、もっと簡単よ」

「ゴメンね、面倒くさくて」僕の口調は半分拗ねている。

「そういう意味じゃないわよ」

即座に反応する真っ直ぐなメイが愛しい。ああ、どうして呉れよう。

「分かってるよ」メイを強く引き寄せた。「それで何色?」

「私はね、鉄紺かな、鉄紺が好きだな」

初めて聞く名称だった。

それって、ちょっと濃いめの紺だったりするのかな。ほら、僕が着替え用に持ってきたセーターを見つけてメイは、いい色ね、って言ってたから。

「んんと・・鉄紺って、あのセーターの色?」

「あ、違うちがう。あのセーターは濃紺。鉄紺ってね、もっと明るくて光沢があるような感じかなあ・・・」

見覚えはあった。

「ああ、分かると思う。多分どこかで見てるなあ」

「そうでしょう、結構見かけると思うな」

「あれは鉄紺っていうのか。僕もファンになりそうだ」

「好きじゃなくて、ファンなの?」

「女性の服飾品にあしらえば際立ちそうな気がする、それがメイだったら素敵だなって・・」

「それでファン? 何言ってんだか」照れ隠しで素っ気なく俯いたけれど、嬉しそうなのは隠せない。

「やっぱり鉄紺は、女性の服や持ち物に使われるのが一番映えるんじゃない?」

「そうかな? そうかもね」

メイはまだ少し照れていた。

 

メイの好みや話は明快で、ある種の爽快感さえ覚える。僕にはその明快さがとても眩しい。

「メイの好みはハッキリしていて気持ちがいいね。僕のはいつも曖昧で自分でも面倒になることがあるよ」

「それは名前を知ってたからよ。あなたの好きな色にもきっと素敵な名前があるわ。日本ってすごく沢山の色に名前が付いてるのよ」

「ありがとう。色の名前も少しは気にしなけりゃいけないね」

これって一般常識なんだろうかと、ふと、思う。僕の不得意とする分野だ。メイは僕の知らないことを沢山知ってるよね、きっと。

 

◇◆◇

 

旭川の街で迷子になる方が難しいだろうと感じ始めていた。すべての道が直角に交差していてカーブや斜めの道がないなら方向の見当は容易だ。迷いそうになったら道路案内板を見ればいいのだ。駅前の大通りを横切った後は、足の向くまま気の向くまま、適当な右左折を繰り返していた。

「少し休もうか、暖かいところで」

休憩場所は気に掛けていたが見つけられずにいた。本気で探そう、そう思って大きな通りに出たところでメイに提案した。一緒に探す楽しさを期待する側面もある。

が、見回してみると大きな通りだからあるだろうと踏んでいた《座って温まれる場所》は、どうやら当てが外れそうな雰囲気だ。目の前の通りは駅前大通りと交差しているはずだから、さて右へ行くか左へ行くか。

「え~っと・・」思わず迷いが出てしまった。

「寒い?」

メイは温まれそうな場所を探そうとしている。メイの疲れを気にしたのに僕の心配をされてしまった。予想外の展開に少し慌て気味になってしまう。

「ありがとう。大丈夫だよ」確かにメイより寒がりだけど「こうしていると寒くないから」密着の度合いがさらに増すように右腕に力を入れた。「メイが疲れてないかなと思って」

「私は全然」

メイが元気一杯の表情をするから、僕はさらに溢れる気持ちで一杯になる。

「じゃ、探しながら歩こう」左折して駅前大通り方向へ向かうことにした。「折角だから良さそうな店、あるといいね」

この通りで見つからなくても、平和通りなら見かけたような気がしていた。

 

「私ね、職場でオニメイって呼ばれてるのよ」

いきなり何て話題だろう。それにしてもオニとは。確認が必要だろ。

「オニって、あの鬼?」

「そ、あの鬼」小気味がいいくらいにキッパリと断言する。

「ええっと!?」変な声が出てしまった。どんな反応をしていいか分からない。「ホントなの?」俄かには信じられない。「全然そんな風に見えないし、どこから来るのオニって言葉が」

「結構きついこと言うし、曲げないからよね」

「北見にいる間、1度も聞いたことないよ」

「陰でね、言われてるらしいわ。面と向かって言われたこともある、冗談ぽくね」

「へえ・・」言葉のチョイスが難しい。自然体が一番なのだろうけど。「やり込めちゃうタイプなのかな?」もっともらしいことを訊いてしまった。

「指摘する時の口調が強いみたいなの」

「ふうん、お手柔らかに頼むね」

「大丈夫よ、あなたには敵わない気がするし」

「僕はそんなに強くないよ」

「あなたは職場でどんな感じなの?」

「僕? 僕の口調はいたって穏やかだよ」ごめん、誇張しました。「怒った記憶もあまりないな」これは事実だった。

「そうなの? 北見にいた頃のイメージそのままだね」

その通りだ。あの頃は肩ひじ張ることもなく、素のままの自分でいられた。メイへの想いは別にしてね。

「北見ではかなり自由に伸びのびできてたね、自分でも不思議なくらい」

「それで地のままでいられたのね。言い合ったりしないんだ」

「皆んな、些細なことで喧嘩するけど僕は苦手なんだ、そういうの」

「へえ・・」メイは珍しそうな声を出して半信半疑って顔になる。

「だから言い争いも喧嘩も放っておくけど、しつこいのも嫌いだからそんな時は仕方なしに仲裁に入ったりするくらいだね」

「でも、自分に降りかかってきたら?」

「喧嘩を売られたことはなかったよ、そういう面では運がいいのかも」

「人に恵まれてるのかな」

そういう事かな、と言ったものの片手落ちのような物足りなさを覚える。「でも・・」

「ん?」

「群れるのは苦手なんだ。大勢だと居場所があやふやになるし自分が埋没しそうに感じる時もある。それでも皆んなでお酒は飲むし遊びにも行くけど」

僕は何を言いたいのだろう。放っておくと取り留めもなく話してしまいそうだった。原因なら判っている。メイが側にいて聞いてくれるから。

「ごめん、何言ってるか分からないよね」

「そんな事ないよ。でも、意外だな」

「そう? 意外?」

「うん、そういう捉え方や感じ方をする人だとは思ってなかったから」

 

「僕たちって」そう言ってメイを見るとメイも僕を見ている。その事実が単純に嬉しい。「多分、色んな事が違うんだね」

「そだね、全然違うのかも」

「違うんだけど」いや、そうじゃないな。「違うからなのかな、メイのこと知りたいって思う。もっともっと知りたいって」

「私も、あなたのこと、知りたい」

  

メイと僕は違う、考え方も好みも話し方も性格も。メイの髪は真っ直ぐで僕のは癖っ毛。寒さに強いのはメイでお酒に強いのは僕。直感で即決するメイの横で、僕は理屈っぽくて慎重だった。そしてメイは女で僕は男だ。

こんなに違うメイと僕なのに、惹かれ合ってしまうのが不思議だった。僕にその理由は分からないけれど、一緒にいるのが楽しくて嬉しくて、もっと知りたくて離れられなくなる。いまはこの状況を素直にそのまま受け止めたい。着飾った言葉で触りたくなかった。
それにね、時間の経過とともに変わってしまう人格の表層的な部分を削ぎ落して、裸になった核の部分ではメイと僕は似ているのかも知れない、とも思っていた。

メイの知らない、僕の見ている世界を教えてあげたい。スキーやドライブの楽しさと映画の面白さも、観光地じゃない観光旅行でのエピソードやハプニングも。悪戯もあるし失敗もあるけれどそれが全部僕だから。
メイも聞かせてくれるね、メイの好きな音楽や本のこと。寒い冬のことや美味しい魚のこと。そしてメイのこと。

そしていつの日か、メイと僕はそれほど違ってなかったって気付くのかもしれない。

  

「青いスーツは持ってないの?」

スーツの色? 突然の問い掛けに少し面食らう。

「も、持ってないな。さっきも言ったけど、スーツもジャケットも全部茶色の系統だよ」

「あなたには、青系統も似合いそうな気がするな」

「アオ!?」予想もしてない提案に喜んでいいのか分からない。「これまで一度も着たことがないよ」

「鉄紺とは言わないから、一度試してみて。似合うから」

メイは自信たっぷりに言ってから、さらに太鼓判を押した。

「絶対似合うわよ、私のおすすめ」

反論なんて、できません。

 

 


遠い昔の恋の始まり。
こちらから順にご覧頂ければ。