あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

北見駅

あれは暑い日だった ――

北見駅へ向かって歩きながら、初めてこの駅に降りた時のことを思い返していた。9月に入ったとはいえ夏の熱気は色濃く残り、陽光に晒された街並みは強いコントラストで縁取られていた。それでも肌にまとわりつくような湿気っぽさはなく、列車と船に一昼夜揺られた身体を手触りのよい爽やかな空気で包んでくれた。北海道を実感した瞬間だった。

あれから僅か4週間なのに、空の色も街を通り抜ける風もすっかり秋の装いになっている。陽が射さなければ肌寒さを覚えるほどで、夜ともなればセーターは必須だ。東京の暑さは思い出すのさえ難しい。

 

9月を数日残して出張が終わった。

早めに切り上げるよう促され、挨拶を済ませて職員通用口から外へ出る。好天だった一日を窺わせる青い空が胸の中にまで広がり、眩しいくらいの明るさが素直に嬉しい。

昨日の帰宅時には薄暗くてトラックやバンで一杯だった中庭も、開け放った空間いっぱいに暖かな日差しを受けてうたた寝を決め込んでいる。駅に通じる大通りへ出たところで振り向き2階の窓を見上げた。

『10時間あっただろうか・・』

僕と君が直接関わった時間なんてその程度なのかもしれない。4週間に散りばめられた僅かな時間が、その後の在り様を根底から変えてしまう不思議を思う。

移ろう季節の歩みは密やかで、それでいてしたたかだ。馴染みの顔で過ぎてゆく日々でさえ、同じ表情は二度と見せない。紡がれた時間の重なりの向こう側に、僕はどんな答えを出せるのだろう。

窓のガラスは空の青さを反射するばかりで、中の様子を教えてはくれない。

『あと少しだから。そしたら必ず・・』連絡するから。それまで待っててくれるよね。

きっと待ってる。必ず応えてくれる。根拠もなく闇雲に信じ込んでいた。僅かな時間にメイが見せてくれた態度や真心は紛れもなくメイの人柄の発露であって、それらすべてを受け容れべきは、外の誰でもない僕なんだと僕の魂が告げている。それは叫びに近いものだった。

バッグを持った右手を背負うように肩に掛け、駅へ向かって歩き始めた。

 

 

駅前ロータリーまで来たところで振り返ると、遠くに小さくパラボラが見える。あの場所での新鮮な驚きに満ちた日々が、遠く近く、郷愁のように懐かしい。

不意に、メイに伝えないまま帰ってしまう疼きがボディブローのような効いてくる。この痛みは自業自得なのだ。意図せずメイに与えてしまった苦痛が僕に還ってきたということだ。

この痛みを忘れまいと思う。

僕は必ず戻ってくる。その力はメイが与えてくれたと信じている。この駅に降り立った頃の自分は、もうここにはいない。この街で何かが永遠に変わった。僕はもう元へは戻らない。

 

◇◆◇

 

待合室は閑散としていて出札窓口にも客の姿はない。

時刻表に並んだ数字がどこに行くのかと問うてくる。このまま真っ直ぐ東京に帰る気にはなれなかった。東京でも北見でもない別の何処かで自分自身と対峙したい、そこが道内なら申し分ないだろう。

いまはまだ見えないこの先の道をメイと共に歩きたい。勿論メイの同意が必要だってことは解ってるし、その前にメイが同じスタートラインに並んでくれることが大前提なことも十分承知している。

なのに僕は、未だにスタートラインにたどり着こうと藻掻いている。これが数週間悩んだ末の結論だったとしても、良い結果をもたらす保証はどこにもなかった。それどころか常識的な判断から導き出される結末は、どれもこれも考えたくもないものばかりだ。胸の底に沈めている感覚は焦燥と呼べるものだろう。

だからせめて背中を押してくれる何か、お前は間違ってないと思わせてくれる何かが欲しい。心の内から沸々と湧いてくる熱い想いを、形ある確かなものとして胸に刻みたいと思っていた。

2時間ほど後に旭川・札幌方面行きの特急を見つけた。終着の函館まで乗り換えなしだ。函館山から眺める見事な夜景の話は聞いていた。闇を背景に煌めく精緻な街灯りは、何かを語ってくれるかもしれない。北海道の玄関口で煮詰まった気持ちを鎮める時間を持つのも悪くない。

函館に降りてみようと決めるのに時間はかからなかった。

 

ベンチ最前列に腰を下ろすと右手に出入り口が見える。四角く切り取られた街並みが西に傾いた太陽を浴びて黄金色に染まっている。どこにでもありそうな情景がいまは有難い。どこかほっとした気持ちになって手にしていた乗車券を胸ポケットに収め、少しずつ色味を増してゆく街を眺めた。

どれくらいの時間そうしていただろう、いつの間にか意識は過ぎて行った時間の中を行きつ戻りつしていた。改札口の時計に目を走らせたとき視界の端に光るものが残った。振り返った出入り口の先で、車のフロントガラスが暮れゆく空を映して輝いている。鮮やかな茜色は1週間前の赤トンボの大群を鮮明に思い出させた。

 

あれはMさんから借りた車で美幌方面へ向かい、端野大橋に差し掛かった時だ。常呂川に沿って飛んで来た赤トンボの大群が、弧を描くようにして橋の上を跨ぎ始めた。微かに震える無数の羽は川面のように煌めき、幾重にも連なる乾いた羽音が聞こえたように思えた。息をするのも忘れて大きな口を開け、ハンドルを抱えるようにして見上げていた。車はトンボが描き出した赤いトンネルを滑るように走り抜けた。

車ではラジオもよく聴いた。テレビもラジオもない生活が続いていたから、久し振りに聴くラジオは新鮮だったし、根室駅付近で宿を探しながら走っている時には、陽水が《嘘じゃないぞ、夕立だぞ》と歌っていた。昼食のパンを探しに寄った摩周の町では、床屋のサインポールを眼にしたついでに散髪もした。まるきりの自由がそこにあった。
全戦全敗のばんえい競馬も、焼きあがった魚を櫂に乗せて差し出された炉端焼きも、氷下魚の味も、郷愁を誘う夜の汽笛も、すべてが昨日のようで、遠い思い出だ。

  

◇◆◇

 

立ち食いそばで早めの夕食を摂り、夜食用にジャムパンとアンパンを買い求めてベンチへ戻ると、改札を始める案内が流れた。

 

薄暗い石北線のホームに乗客の姿はほとんど見掛けない。ベンチの真ん中に荷物を放り投げて腰を下ろした時、何かが目に入った。振り向いた先の柱に【きたみ】の文字があった。紺地に白抜きで書かれた文字が何かを訴えている。

「分かってるよ」

駅名表示板から目を逸らしても、鮮明に甦る記憶から逃れられない。僕は何も解かってないのかもしれなかった。

黒々とした貨車の塊があちらこちらにうずくまっている。入れ替え作業の汽笛は今夜も北見の街に流れ、それはきっとメイの耳にも届く。その時メイは何を思うだろう。

 

こんなことはなかった昨日までは。

たぶん今日はナーバスになっている。北見を離れるまでの残り少ない時間がそうさせているのだ。昨日まではベストだと思っていた計画が、今日になって大間違いだったと知らされているようで穏やかではいられない。

心の隙を衝くように僕を唆す声が腹の底から次々と湧いてくる。

《心の整理など後回しだろう》

《四の五の言わずに想いを伝えろ》

《メイはそれを待っている・・》

解っているさ。これまでずっと考えてきたことじゃないか。
もうすぐ来るだろう列車に僕は乗る。そう決めたんだ。打ち明けるならもっと前にすべきだったし、ここで崩れるようではその先は望めないだろう。事態はすでに次の段階へ移ったのだ。結果を待つしかないのは明白な現実だ。

ベンチに寄り掛かり両手を頭の後ろで組んで背筋を伸ばすと、呻きともため息ともつかない音が漏れた。頭の上の電球が眩しい。

 

 ◇

 

夜を予感させる薄闇が柔らかく落ちている。微妙に立体感を失くした構内は、巨大なカンバスに描かれた写実画に見えなくもない。ホームの向こう側には動こうとしない貨車が群れ、手前に点在するベンチには一人の男が腰掛けている。小さく丸めた背中は絵画の中に嵌め込まれて身動きすらできない。進むことも戻ることもままならない姿は、具象化した自身の心理そのものだ。
列車はまだ来ない。
ここが時間さえ塗り固められた絵画の世界なら、列車が来ることはないし僕は北見の駅で永遠に待ちぼうけになる。それは存外に平穏なのかもしれない・・
浮遊していた意識に、突然割り込むものがあった。
コツコツと明瞭に響く足音は強固な意志で聴覚を刺激し、僕を北見駅のホームに引き戻した。

大丈夫だ。誰かが歩いているなら世界は動いていて、いずれ列車は来るさ。そう思うと同時に、子供じみた空想に浸っていた自分を笑うしかない。やっぱり今日はどうかしている。

 

左側から近づいてきた足音は、僕の真正面でピタリと止まった。

「ん?」

反射的に上げた顔に「あれ?」と発した言葉が貼り付く。

メイが立っている。

間の抜けた表情のまま僕は動けない。信じ難い現実を目の前にして、何が起きているのか理解できない。

何かの間違い? 悪い冗談?

僕の慌てぶりなど意に介さず、メイは安堵の色を浮かべた。

「よかった、間に合って」

良かった・・って、何が?

答えを見つけるより先に、確かに聞こえたメイの声が全身に沁み渡る。僕の心拍数は徐々に上がり始め不穏な動きが混じる。嬉しさより驚きの方が勝るらしい。口を衝いて出たのは、驚いた状態そのままの素直な反応だった。

「・・どしたの?」

詰問するような口調になってしまった。僕の胸を疼かせている本人を前にして感情のコントロールができない。

「うん・・」君は言葉少なだ。

少し上がった息遣いが急いで来たことを語っている。上気した頬は僕の胸をきつく絞り上げ、肺の空気を残らず追い出してしまう。苦しさは全ての理屈を凌駕して一足飛びに結論を求め始める。今なら上手く伝えられるだろうか。

ベンチに座るよう促そうとしたとき、列車の到着を知らせるアナウンスが響いた。

君は急ぐようにバッグの中から包みを取り出し、立ち上がりかけた僕に、はいこれ、と差し出した。

思わず出した手に渡された包みからは、仄かな温もりが伝わってくる。ゆっくりと沁みる温かさが心地良く、沈んでいたわだかまりが溶けてゆく。

手の中の奇跡を受け留めることに精一杯な僕に、君は包み込むような微笑みを手向けてくれる。

「おにぎり、夜食にして」

何か言おうとして、それが何だったか思い出せない。君の瞳の奥に走った煌めきが、言葉を失くしたままメイを見つめ続けている僕の網膜を射抜き、胸の真ん中に確かな灯りをぽつんと点した。

「ありがとう・・」

「・・・」君は何も言わなかった。

コクンとうなずいた微笑みの中に、微かな翳りが射したような気がした。

胸にチクリと針が刺さる。翳りの原因は僕にあるのかもしれない。

 

ディーゼルエンジンの唸りと共に列車が入ってきて、ホームは急に賑やかになる。気付かないうちに集まっていた乗客たちは、小さな群れになってそれぞれの乗車口へ向かい始めた。

「ねえ、何号車?」

メイに促されて指定席券に記された番号を確認する。

「向こうだね」

僕は少し前の車両を指し示し、二人並んで歩き始めた。

ドキドキしていた。そして同時に途轍もなく寂しい。つまらぬ意地など捨ててしまいたかった。

指定された車両が近付いて来る。手の中にある包みの温かさと、触れあう肩の暖かさが交錯する。理屈なんてクソ喰らえだ。僕はメイの腕を引いて立ち止まらせた。

「メイさん!」

自分でもびっくりする大きな声が出て、乗車口に並んでいた全員が振り向く。乗客の列に向かって詫びの意を込めて会釈し、半分驚いた表情のメイを見つめ直す。

「待っててくれないか、電話するから」

「・・・」

意味が飲み込めないのか、メイの表情には戸惑いの色が浮かんでいる。胸の疼きを抱えたままメイを待たせるのは止めよう。はっきり伝えることが僕の責務だろう。乗車を始めた乗客たちの好奇の視線など目に入らなくなっていた。

「電話するからね」

「うん・・」

メイの戸惑いは、はにかみに変わる。確実に伝わるよう僕はもっと大きな声を出した。

「必ず電話するから、必ず」

「うん、待ってる」

メイの笑顔は本物になった。

 

◇◆◇

 

日はとっくに暮れていた。

僕の背中を力強く押してくれたのはメイその人だった。

今夜は眠れないだろう。

汽笛にメッセージを載せられるなら、溢れる心を汽笛に託したい。夜道を歩いて帰るメイの周りを心暖かになる汽笛で照らそう。

メイが自室に戻るころ、たくさんの汽笛が鳴ればいい。

 

あれは「告白」なんだよね。

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
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