あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

子供みたい

寝付きはいい方だと思う。布団に横になって5分もすれば、ストンと落ちるように睡眠モードに入ることができる。

そうした体質でも稀に寝つきが悪くなることもある。要因の1つが深酒で、寝てるような寝てないような中途半端な状態のまま朝を迎えてしまったりする。もう1つの要因が寝しなの読書だ。特に眠い目をこすりながら、あと少しだから、と我慢して読んだりすると妙に頭が冴えてしまうことがある。そうなると眠気が戻るまで長時間の修行を余儀なくされ、後悔と共に朝を迎えねばならない。

そんな日は一日中眠い。そして何故だか手のひらが暖かくなる。

 

◇◆◇

 

今朝は半分しか開かない眼で出勤する羽目になった。睡眠を侮ってはいけないと、つくづく後悔している。上野駅で買った三島由紀夫の《午後の曳航》に飲酒が絡んで、二日連続してろくな眠り方ができていなかった。

一昨日の夜、飲んで帰った下宿の部屋で何かを蹴飛ばした。暗がりの中手探りで明かりを点けると部屋の隅に文庫本が転がっている。青森行きの列車の中で読み始めたものの集中できずに途中で閉じてしまった《午後の曳航》だ。今夜帰ったら読んでやろうと出勤前に出しておいたのだ。
「そうだった・・」すっかり失念していた。
拾い上げた拍子に何かが落ちる。栞だった。何かに促された気がして腕時計に目を遣ると、入浴時間はとうに過ぎている。
『風呂は、なしだな。 仕方ねぇなぁ』
丸めた《午後の曳航》のページをパラパラと繰りながら、栞の挟まっていたであろう場所を探す仕草をしながら思案する。どこまで読んだのか確認がてらほんの少しだけ先へ進めば、今朝の自分への申し訳もたつか・・。
『ちょっとだけだぜ』
ざっと目を通せば分かると簡単に考えていたが、大間違いだったらしい。
適当にページを繰って拾い読みをしても、覚えのあるエピソードがどこにも見当たらない。次第に焦りと疲労の色合いが濃くなってゆき、気付いたのは後悔と共に目を覚ました時だった。《午後の曳航》は伏せた顔の下にあり、左側の頬から目にかけて不自然な溝が刻まれていた。
最悪な気分で朝が始まったとしても、体を動かして冗談の一つも放り出せれば、昼を過ぎる頃にはそれなりにエンジンは回り出す。そうやって昨日は事なきを得ていた。平穏なまま一日を終わらせれば今の寝不足はないはずだったのに。
夕食を済ませてから暖かい湯にゆっくり浸かれば、一時的にしろ疲れも洗い流せた気がするものだ。二日分の汗を流した爽快感に、前日の不始末を取り戻せるかもしれないとの思いが頭をもたげる。安直に過ぎる考えに疑念を抱くこともなく《午後の曳航》に手を伸ばしていた。
前日読んだはずのページをざっと見返すと案の定何も覚えていない。仕切り直しになる予感に気持ちのギアが入り、冒頭まで戻ることにした。少なからず残っている後頭部の眠気には、切りのいいところまでだからと自分に言い訳して圧し込めた。
キンと音がしそうなほど引き締まった空気は、適度な緊張をもたらす効果があるようだ。時折活字から逸れた意識が、そろそろ止めるか?と問い掛けてきても、その度に、もう少しだ、と活字に意識を戻していた。そんな繰り返しがいつしか冴え冴えとした意識を脳内に創り上げ、眠ることを拒否し始める。
枕元の腕時計に目を遣り、これはマズイと布団を被った時にはすでに後の祭りだった。

 

◇◆◇

 

身体を動かしていることにした。

デスクワークを避け、機械室内を動き回るように心掛け、立ち仕事を優先して選び、なんとか無事に午前中をやり過ごした。

昼食を済ませて机に突っ伏すと1分もしないうちに眠りに落ちていた。

 

 

「なんだか眠そうっていうか、辛そうね」

作業の合間に眠気覚ましのコーヒーを飲んでいると、君は《どうかしたの》という顔付きで覗き込んできた。

「うん、眠い。何杯飲んでも効かないし」

僕は手に持ったコーヒーカップを掲げて見せる。「でも、昼寝したから。少し楽になったよ」なるべく元気そうに振舞ったけど、眠い目は隠しようがない。

「昨日は飲み会じゃないわよね、具合でも悪いの?」

君が本気で心配しそうなので、僕の方が慌ててしまう。

「あ、いや、身体は大丈夫だ。夜更かししちゃったから、本読んでて・・」

「え? 本を読んで?」信じ難い原因だったようだ。

「切りのいいところまでって眠いの我慢して読んでたら、眼が冴えちゃってさ」

「へえ・・」君は呆れ顔になって言う。「いつまで起きてたの?」

「下宿が静かなのが余計にいけなかった。眠れたのは多分朝だよ、もう明かるかったから」

「やっぱり東京とは違う?」

「むこうは何かしらの音がしてるよ。静かな雑音みたいに」

「その方が眠れなくなりそうだけど・・」

「下宿はまるきりの無音だよ。そうすると耳の中が唸るようになったりしない?」

「まあ、分からなくはないわね」

「周りは高校生ばかりだからね。悪くて音立てられないし」

「ねえ、何の本読んでたの?」

「午後の曳航、三島由紀夫の」

三島由紀夫かあ。 読んだことないな」

「僕も少ないよ、これで2冊目くらいかな」

「1冊目は何ていう本? 面白かったの?」

憂国。 先輩の家でお酒飲みながら読んでた」

「お酒飲みながら??」

君はそんな雰囲気で読めることが不思議そうだ。

「炬燵囲みながら飲んでて、横を向いたらその本があって・・」

「うん・・」

「手に取って2, 3ページ読んだら、そのまま・・」

「ふ~ん、面白かったんだ」

「その本が薄いってこともあったんだよ、だから一気に」

「でも、面白くなければ読めないっしょ、そういう場所で」

「それもそうだね・・」面白いって言うのとはちょっと違うんだけど、何と言えば伝わるのか、当時の印象を思い出していた。「なんかさ、人間の心理や心情とか、肉体的な痛みを事細かに描写してるんだよね。それがとても的確に思えて、よく書けるなって驚きが大きくて、途中で止められなくなったってところかな」

「面白そうだよね、私も読んでみようかな」

「《憂国》は持ってないけど、《午後の曳航》は貸してあげるよ」

「そう? じゃ読み終わったら借りよかな」

「それで面白いって感じたら、他の本にも手を出せばいいんじゃない」

「そだね、そうする」

 

コーヒーカップが空になっても相変わらず眠いままで、手の暖かさもそのままだ。じっと動かずにいると眠気に襲われそうだ。

「ねえ、眠くなると手が温かくならない?」

僕は手のひらを見せながら、そんなことを訊いてみた。

「なるわね、でもそれって子供よ」

君は肯定するような否定するようなことを言う。

「いやいやいや、大人でもさ・・」僕の手がいま暖かいのは事実だし、大人だって同じだろうと思う。「手のひらがあったかくなるでしょ」

僕の話に君は信じられないって顔で、そりゃ少しはね、と応じそして言い放つ。

「でも、眠くて手が暖かくなるのは子供とか赤ちゃんよ」

軽くショックだ。そっちの話の方が信じられなかかった。眠くなると手のひらが温かくなるのは、僕には当たり前の反応なのに・・。

「あの、でもさ・・」

僕がもじもじしているのを見て君は何かを感じたようだ。

「え? あれ? もしかして・・」

「うん・・」

なんとなく君の顔を正面から見られない。

「ホントなの?」

信じ切れないようなので仕方なく状況説明をする。

「僕の手はさ、眠くなると暖かくなるんだよ。そうなるとね、冷たい所を触っても冷めてくれないし、じっと座ってたら本当に寝てしまいそうで困る時がある・・変かな」

そう言ってもう一度手のひらを見せる。

「だから今日は、ずっと手が暖かい」

君はそっと僕の手のひらに触れ、驚いたように言った。

「やだ、ウソッ、子供みたい・・」

「だから、子供じゃないんだけど」

「そだね、ごめん。でもさ・・」

君はまだ半信半疑の域を出られないらしい。

「ちゃんと触ってみなよ」

僕が差し出した手に君の手が重なったところで、ぎゅっと握ってやった。これでハッキリ解るだろう。

「わ、暖かい・・。 嘘みたいだけど・・」

「な、正真正銘の体温だよ。嘘でもマジックでもないだろ」

「うん・・・」

「まだ何か疑問があるの?」

「私、いままで会ったことないから。こういう人に」

ウソって言いたいのは僕の方だった。

「・・・みんなは違うの?」気付いたらつぶやいていた。

皆んな同じだと思っていた。どうやら違うらしい。

今夜はまた眠れなくなりそうだ。