あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

負けそう

時折、日本中を巻き込む流行り言葉がある。

『あたり前田のクラッカー』は大人から子供まで知っていたし、テレビCMから派生した『男は黙ってサッポロビール』や『何である、アイデアル』は、社名や商品名を替えて皆の口に上っていた。瞬く間に社会現象となった『お呼びでない』は植木等のその場しのぎの発言であり、首相の国会答弁『私は嘘は申しません』はジワジワと浸透した変わり種であった。そして中には『○○かもね』という出自不明なものまであった。

 

あの頃の日本を席巻していた『負けそう』も出自不明な流行り言葉のひとつだった。

誰が言い出したか判らないものの、テレビ出演者が口にする言葉はメディアに載って耳に馴染むうちに、日常の会話に抵抗なく取り込まれて、いつしか日本中の口癖になっていた。

全国ネットのテレビの影響は凄まじく、北見の街もすっかり吞み込まれていて、まさに『負けそう』と言える状況だった。怒涛のように押し寄せる感染力に抗う術などあるはずもなく、僕が北見に着いた頃にはさしもの君もすっかり口癖になっていた。

 

 

階段を上がり、機械室前の廊下を右に行った突き当りに事務室入口がある。

入口から3番目の机は背後に駅前通りに面した窓があって、入ってくる自然光を心地よく感じられる位置にあった。僕がその机を今日の作業場所として決めたのは自然光もさることながら、窓際のテーブルにコーヒーのセットが置いてあったからかもしれない。この日は朝からデスクワークを手伝っていた。午前中にはケリをつけようと決めていたこともあり、気に入りの場所での作業にいつしか集中していた。話し声や電話の音は意識の外に押し出されていた。

 

環境ノイズとなっていた騒めきの中に、日本語らしいものが混じっているのを耳が拾い意識の中に入ってきた。それは女性の声で「・・なんだね、負っけそ」と言ってると即座に分析が行われる。

さらに続けて「そうなの、負っけそでしょ」と聞こえた時には、声の主は電話をしていてそれは事務室内の反対側の席からだと詳細な解析が行われた。

ん? 女性? さっきは居なかったけどな、そんな風に考えたとき無意識に顔が上がって事務室を見まわしていた。いつの間に来たのだろう、机に寄り掛かかって受話器を右の耳に当て、小首を傾げた姿勢で談笑している女性の姿があった。電話の相手は学校時代の友人か職場の同期生なのだろう。気さくで開けっぴろげに女子トークを展開しているのはメイさんだった。

それにしても良く通る声だ。大きな声でもないのに事務室のどこにいても話の内容が伝わるほどクリアに聴こえる。

『女性の声が響くだけで、職場の空気は明るさを増すんだ』新鮮な発見だった。

君の声をBGMのように聴きながら、優しい心持になって机の上に散らばっている書類に目を戻した。

統計データのチェックを急ぎながら、僕の耳は勝手に君の声を拾い続けた。

~ だから言ったのに、負っけそうよ ~
~ うそ! 負っけそ! ほんとなの? ~
~ やだぁ・・負っけそう・・それでね・・ ~

連発と言ってよかった。たぶん君自身は気付ていなくて、指摘されれば「うそ、そんなに言ってた? 負っけそ」って言うだろうけどね。

おまけに次々と出てくるそれは僕が馴染んでいた『負けそう』ではなく、少し強めの口調で『マッケソ!』にアレンジされているから、最早これは君の個性と呼んでもいいレベルになっていた。

そこに接頭語がついて

「バッカみたい、もう負っけそ!」

とくれば負けそうなくらいに完璧だった。

話しに夢中の君は、なんだか可愛らしくもあるし。

 

誤解のないように言っておくと、決して盗み聞きしたわけではありませんからね。届いていたのですよ事務室の隅々に。けれど敢えて白状するとすれば、ちらちらと顔を上げて楽しく見学させて頂いたことは紛れもない事実。ですね。