あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

反則

通りに面した大きな窓のレースのカーテンが、薄ぼんやりと白み始めている。遮光カーテンを開けた時はまだ闇の中だったから、あれから少し眠っていたようだ。

静かにゆっくりとしたリズムで聞こえているのはメイの寝息だ。間近で耳にする生命の気配は大きな安心感と確かな明日を約束してくれる。伝わってくる心地よい温もりは狭い空間を共有しているメイからの贈り物だ。

もうすぐ夜の闇を払って旭川の街が姿を現す。北海道の夜明けを見たことのない僕は、この際だから見ておきたいと思ったものの一つ問題があった。窓はメイの向こう側にあって、このままでは明けて行く街並みを眺めることは難しそうだ。体勢を変えるとなると、折角メイから届いている心地よい温もりを諦めなければならない。それは手放すには余りに惜しい。逡巡した挙句、現実的な選択としてまだ夜明け前といえるギリギリまで待つことにした。

名残惜しさに歯噛みしながら、君を起こさないようにそっと左へずれて右向きに寝返る。温もりは届かなくなったが、目の前の君の横顔が窓の薄明かりを背景に絵画のようなシルエットになった。ゆっくり上体を起こして右肘を曲げ、その手で頭部を支えると丁度良いアングルになる。これならメイの寝顔越しに窓側を見渡すことができる。僕は絶妙のポジションに満足して、少しずつ輪郭が鮮明になる窓の外と目の前のシルエットを交互に眺めた。

 

手首の痺れに抗しきれず何回目かの姿勢を変えていた時だった。

「あ、おはよう・・」

もぞもぞと動いた君は起き抜けの未完成な笑みをこちらに向けた。少し腫れぼったい目は不十分な眠りを語っている。素のままのメイに思わず漏れる微笑みを返しながらその瞼にそっと唇を当てた。

「起こしちゃったね」

「ううん、大丈夫。 何を見ていたの?」

「うん、外の景色をね」視線を窓に向けて言った。「影絵みたいでしょ」

頸を捻って窓を向いた君は、ホントだ、と僕に向き直る。その目が続きを促す色を帯びて何かを期待しているように揺れるから、僕は思わず白状して尾ひれまで付けてしまう。

「それから、メイの」と言って一旦言葉を切るとメイの瞳は一瞬大きくなる。何かに気付いたようだ。僕はメイの期待通りに一音ずつ区切って『ネ・ガ・オ』と発音する。言葉に合わせて君の鼻の頭を指先で軽くトントンと叩くことも忘れなかった。

「もう・・」やっぱり、という目をした君は困惑と期待が絶妙に混ざり合った顔で「そんなに見ないでよ」と抗議する。

自分の顔は自分には見えない。君が気付かずに醸し出している媚薬のような雰囲気に僕は抗うことができない。それならば、と真剣な口調になって君の頬を両手で挟んで僕に向けた。

「穴が開くという伝承はホントに正しいのか、科学的に検証しよう」と宣言して、検証スタート、の声と共に無理矢理にらめっこの態勢にもっていった。呆れてしまったのか、メイに抵抗する様子は見えない。眠気はすでに何処かへ飛び散っていた。

メイの表情に浮かんでいた戸惑いと恥じらいは、陽に照らされた淡雪が融けるようにゆっくりと消えてゆく。揺れ動きやがて秘めた決意に収斂する心の移ろいを、メイは隠すことなく僕に見せている。恥じらいを纏った少女が大人の女性へ変わってゆく様を、鼻先が触れるほどの近くで目の当たりにして平静でいられる男がいるだろうか。穴が開くことを心配しなければならないのは僕の心臓だった。コントロール不能になった拍動は全身を伝ってメイと呼応していた。冗談のように始まったいたずらにふたりとも笑わなくなっていた。

現在(いま)のこの瞬間(とき)を永遠に留めたい ―― これまで多くの恋人たちが何百億回となく願って叶わなかった想いは、今日この時も同じとは限らない。奇跡はいつだって突然なのだから。奇跡が起きるなら今日であって欲しい・・

死んでも構わない、そんな陳腐な科白など絵空事だと思っていたのに、このまま時間が止まってくれるならと、祈りにも似た強い想いが渦巻いて胸の苦しさは一向に収まらなかった。

 

 

気付けば、通りの向こう側の建物がカーテン越しにハッキリ見えている。時間は止まってはくれなかったようだ。陽の光が窓の形を少しゆがめて柔らかく床に落ちていた。

「ちょっと待ってて」

起き上がった君は、見ないでね、と言い残してベッドを降りて窓辺に歩いて行った。

僕は寝転がったまま返事をする。

「・・うん」生返事だった。

僕の目はメイの動きに惹き付けられたまま歩いて行く姿を追い、片時も逸らすことができないでいた。何も飾らない君は純粋に美しい。

きれいだ。

心からそう思った。

窓から射している朝陽が君の動きに合わせて優しく踊り始める。

爽やかな朝陽を全身で受け留めた君は、光沢のある繭に包まれて誰にも見せない僕だけの女神になる。

滑らかで緩やかな弧を描く輪郭は、内側に秘めた熱い思いで仄かな光を帯び、静かな空気をまとって凛とした佇まいは孤高の意志を語っている。そこには完結した美しさがあった。

 

目の前の情景は僕たちの日常になって、僕の側にはいつもメイがいる。
心地よい声で目覚める朝も、優しいkissを交わして眠りに就く夜も。
買い物の荷物担当は僕で、メイの洗った食器を僕が拭く。
晴れた休日は店先のテラスでお茶を楽しみ、雨の日は傘を持って散歩に出よう。
メイの笑顔は僕の生きる動機であり、メイの流す涙は僕が拭ってあげたい。
共に歩むことが自然の摂理と感じる。心を重ね合わせて日々を過ごそう。
メイのこと、丸ごと受け止めよう。
僕を信じてくれるなら、怖いものは何もなかった。

 

捩じれた時間軸を行き来しながら僕は自分の魂を見つめている。数メートル先のメイを映している僕の眼には、将来のメイの姿がオーバーラップしていた。

メイの胸元で何かが煌めき現実に引き戻される。

朝陽のダンスはまだ続いていた。

僕のささやかな反則に、君はとっくに気付いていたのかもしれないね。

 

 


遠い昔の恋の始まり。
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