あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

旭川駅石北線ホーム

コーヒーカップが二つ載った窓際のテーブルで、メイの手は僕のをおもちゃになっている。正確には温めているのだが。細く形のいい指を1本ずつ丁寧に伸ばしてから両手で包むようにして丸め、君の温もりを確かめる。

メイが、手が冷たい、って言ったのが始まりだった。

貸してごらん、そう言って冷やりとするメイの手を両手でくるんだ。

「わ! 暖ったかい」

予想もしない暖かさに驚きはしても、その心地良さにはメイの頬も緩むようだ。揉まれている手をしばらく静かに眺めていたメイは、やがて何かに気付いたように訝し気に僕の顔を覗き込んだ。

「眠いの?」

突拍子もない問いに、直ぐには真意が分からない。

「え? なんで?」

「だって、こんなに手が暖かい・・」

「あ、そっか」合点がいった。眠いと手が暖かくなる癖を、以前に話したことがあったっけ。「覚えてたんだね」

君の目が、当たり前よ、って言ってる。

「まだ2ヶ月前だもの」

「そうか、そんなものなんだね・・」わずか数か月前の出来事が遠い日に思える。二人の身辺はそれほど急速に変化していた。

「そうだ!」忘れられない出来事があった。「あの時メイは僕に向かって『子供みたい』って言ったんだぜ」

手首から指先に向かってさすりながら言うと、君はちょっと驚いた顔をする。

「ええっ、そんなこと言った?」

「忘れたの? 僕の手を触って『ウソッ!』とも言ったんだよ」

「わあ、覚えてないワ」

困惑気味のメイに和んでしまう自分が可笑しい。僕は含み笑いになって、そうなの、と呟きながら温める手を取り替えるよう身振りで促した。素直に差し出された手を、丁寧に両手で包んでゆっくり揉み始める。

「正確にはね『やだ、ウソッ、子供みたい』の3連発だったよ」

「ホントに?」君の目は自信なさそうに揺れ、「言いそうだな、私」と呟いてから真顔になった。「それより、大丈夫なの? これから夜行でしょ?」

「うん、大丈夫さ」あまり自信はないけれど、バタンキューと寝てしまえる気もしている。「列車に乗っちゃえば暖かいし、朝までゆっくり眠れる」そう、眠いには違いないのだ。

「風邪ひかないでね」

「ありがと・・」

少しずつ温かくなってきたメイの手はとても柔らかく心地よい。左右交互に繰り返すうちに当初の目的は分からなくなっていた。

 

微かに流れる音楽が店内に漂う生活音と同化している。設えられている調度や装飾品は雑然とした中にも統一感があって妙に馴染む上に、包み込むような空気が不思議な味わいを醸している。居心地の良い店内はそこだけ緩やかな時が流れていた。

ふと目に留まった店の奥に掛かっている柱時計が、時の流れをリアルな世界に引き戻す。メイの乗る列車までどれくらいの猶予があるのだろう。僕は君の手を丸めながら訊いていた。

「列車は、まだ大丈夫?」

君は頭を巡らせて時計を見る。

「少し早いけど、駅までゆっくり歩いてもいいかな」

「そうか・・」

また明日ね、と言えたならどんなに心は軽やかだろう。夜も更けて静まり返っている北見の路地を潜めた声で囁くように話しながら並んで歩き、玄関の灯りを背にしてシルエットになったメイの前で「また今度ね」と言えたなら、きっと今よりは暖かな気持ちで帰れるはずだ。けれどここは北見ではないし、列車に遅れる訳にもいかない。僕は頭を小さく振って沈みそうな気持ちを奮い起こした。

「そだな、この手を温めたら出掛けようか・・」

「うん・・」君の言葉に陰りがないのは、恐らく努めてそうしているから。

二人一緒の大切な時間だから、楽しい思い出だけを残せたならどんなにいいだろう。触れているこの手を通して、僕の体温がメイの心まで届き、ずっとずっと留まるようにできたなら・・。

僕は温めていた手をそのままに、そっちの手も、と言って微妙に温度差のあるメイの両手をサンドイッチ状に包み込んだ。そして両手が均一に温まるよう充分と思われる頃合まで待ってからメイの目を見た。準備はいいようだ。

「よし、じゃ行こうか」

「うん、ありがとう」君は両手を開いて僕に見せる。「ポカポカしてる」

その手のひらは陽に透かした桜貝の色に染まっていた。

「良かった」呟く僕に向けるメイの表情が僕の心も暖かく染める。

カップの底に少しだけ残っていた冷めたコーヒーを飲み干して立ち上がる。ザラついた苦みが口の中に残った。

 

店の外では寒さが自己主張を始めていた。

「冷えてきたね・・」繋いだメイの手をコートのポケットに急いでねじ込む。灯りの点り始めた大通りのずっと向こうに、駅が小さく見えている。

《このまま蜃気楼のように消えてしまえ》駅に向かって心の中で唱える。永遠に辿り着きたくなかった。次に会えるまで幾つの夜を超えればいいのか、その長さが重石のように伸し掛かかり数えるのは途中で止めた。僕のポケットに入っているメイの手が暖かい。

 

◇◆◇

 

発車時刻までは少し間があった。閑散としている待合室のベンチに並んで座り、ぼんやりと時計に目をやっていると、ここ数日の出来事が潮が満ちるように寄せてくる。

向かい合い額を寄せて座った小さなテーブルの上で、両肘をついたメイは胸の前で手を組み真剣な眼差しを僕に向けている。その手を両側から包み込むと僕の手の中に収まってしまうメイの手がとても小さく思えて、切なさと愛しさで胸が痛くなる。緊張しているのか、メイの手は少し冷やりとしている。
この手を離してはいけない、この小さな手の中にメイと僕の宇宙がある。夢を描くのも実践するのも、二人の行動のすべての出発点であり帰ってくる故郷がここにある。メイと僕はここから始まる。
僕を見つめているメイに視線を戻し、瞳の奥に秘めている互いの心を結び合うように、静かに約束を交わした。

話したい事も訊きたいこともたくさん残っている。だからいまはまだ離れる訳にはいかないのに、僕たちが使える時間はあまりに少ない。向かう先のない苛立ちが胸の中で燻ぶっていた。メイと僕を隔ててしまう距離が、いまは悲しい。時折、身体の内側を締め付けるような痛みが襲ってくる。恋はもっと楽しいものだと思っていた。

 

時計は止まってくれない。僕たちの願いなどには無頓着に発車時刻のタイムリミットは着実に近づき、ポツリポツリと交わす会話に陰を落とす。僕はベンチの背もたれに体重をかけて背筋を伸ばし、大きく吸い込んだ空気を溜め息と一緒にゆっくり吐きだした。

背もたれに寄り掛かったまま隣のメイをぼんやり眺めていると、君は俯くように動いて足元に視線を落とした。露わになった細いうなじに僕の左手は吸い寄せられ、気付けば白い襟足を際立たせているショートボブに触れていた。

滑らかな感触がゾクリとした感覚を背筋に走らせ手を離せなくなる。そのまま耳の後ろへ挿し入れて指を広げ、形のいい後頭部に沿って髪を掻き上げてからうなじまでゆっくりと梳き下ろすと、メイの温もりと髪のストールに包まれた僕の左手はすっかり温められていた。

掌に残った髪を優しく丸めるようにして揉んでいると、身体中の神経がしっとりした指先に集中して感覚はより鋭敏になる。心持ち上げた顔をこちらを窺うように小さくゆっくりと動かすメイの表情は、yes なのか no なのか僕には分からない。指先は僕自身と化してしまい、もう手の動きを止められない。

何度繰り返しても愛しさは募るばかりで、別れの慰めにはなりそうになかった。できるならこのまま・・強い衝動に圧された僕の手がメイの耳に掛かったとき、メイは消えてしまいそうな声で囁いた。

「・・やめて・・」

その声は限りなく優しい、そして切ない。

「・・感じちゃうから・・・」

 

◇◆◇

 

改札を開始するアナウンスに促され、ふたりとも無言で石北線のホームへ向かう。灯りの点いた人影のないホームは僕たちの心象風景のようだ。

蛍光灯が照らすホームの外側は薄闇に溶け込み、さながら暗い湖面に浮かぶふたりの時間を載せた方舟だ。進んできた方向も、これから向かう先も夜の支配が始まっている。

静寂に包まれた方舟の上を、メイと僕は中心に向かってゆっくりと進んだ。二人きりの時間の中で言葉は要らない。濃密な時間はそれだけで饒舌だ。

置き去りにされたようなベンチに荷物を置くとそのままメイを抱き締めた。髪に隠れていた耳の後ろと、コートの襟から覗いている白い首筋に唇を寄せ、最後にもう一度頭から抱えるように抱き締める。濃縮された時間が二人の体内を透過していった。

メイの拘束を解いた僕はその頬を両手で挟み、僕を見つめている瞳に直接語り掛けてから唇に触れた。ベンチに座る気はなかった。点在する照明が暗い構内に明かりのサテライトを作っている。互いの腰に両手を回して向かい合う。木と鉄とコンクリートの構造物を浮き上がらせている照明は、間近に見るメイの陰影を濃くしてモノクロームの世界を演出し、僕をドキリとさせる。

『きれいだ・・』

思わず漏れた呟きにメイの唇が問いかけるように動くから、僕はモノクロームのメイに向かって語り掛けていた。

「メイ」

「ん?」

「ありがとうね、こうして会ってくれて。一緒に居てくれて。話してくれて・・」

言葉が勝手に流れ出していた。これまでのこと全部が嬉しいから、何かを、僕の胸にある暖かい、何か、を伝えたい。

「うん、私も嬉しかったよ」

「僕のことをもっと知って欲しいし、メイのことをもっと知りたい」

「私も」

「たくさん話したけど、まだまだ全然足りない」

「・・・」

「たぶん僕は、ホントの自分を出せてない」湧き上がってくる気持ちに言葉が追い付かない。「時間が欲しい、二人の。 もっともっと会いたい・・」

「それは私も同じよ。したっけ・・・」

メイの言葉を遮るようにして僕の口から言葉が突いて出る。

「そのことで僕は謝りたい」どうかしている、こんな時に。自分でもそう思う。

「謝るの? 何を?」

案の定、メイは面食らった様子だ。

「北見にいた時から二人で会うことはできたはずで、そうすれば二人の時間はもっとあった・・」

「そうだけど。過ぎたことより、いま会えてることのほうが・・」

「うん、僕のエラーをメイがカバーしてくれたお陰だよね」

「そんなことないよ」

メイ、君は優しいな。

「遅れてしまった僕のことをメイは待っててくれたって、僕は思っている。これまでのことや色んなことも含めて、とても、とっても嬉しい」

「・・」

「だから・・」期待に揺れるメイの瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。「ゴメン。そして、ホントにありがとう」

メイの瞳が濡れたように煌めいている。この瞳に吸い込まれたいと思う。静寂が僕たちを包んでいる。

やがて口を開いたメイの表情は明るい。

「・・なんだか照れるけど、ありがと。私も嬉しい」

「ごめんね」僕はまた謝っている。「こんな話を、慌てたような感じで。メイが北見に帰る前にどうしても言っておきたかった・・」

うん、と応えたメイは、解ってるよ、と言ってるように見えた。

満ち足りた気持ちを二人で分かち合えれば、会えない日々の切なさに幾らかでも折り合いをつけられる、そう信じたい。

 

『・・・の列車は、上川、遠軽、北見方面、網走行です。途中停車駅は・・・』

列車の到着を告げるアナウンスが頭の上から降ってきた。こういう時の列車は、憎らしいほど定時に到着する。モノクロームだった世界は突然彩色されて夜の色に染まる。

僕はベンチから手提げバッグを拾い上げてメイに渡し、もう一度だけ軽く唇に触れた。「気を付けて。寒いから風邪ひかないでね」

「うん、あなたも」メイはバッグを左手に持ち替えて右手を差し出した。

僕は握手した手を握り直して胸に引き寄せ、メイの背中に左手を回した。バッグを持ったまま抱き寄せられたメイは前屈みになり、上向きになった顎を僕の肩に載せる恰好になる。ふたりの胸で挟んでいる手に力を籠め、僕の口元まで寄せられたメイの右耳にそっと囁く。

「そしたらね」メイの口癖を真似てみせると、メイはクスッと鼻を鳴らした。

「そしたらね」お返しの挨拶には少し笑みが混じっていた。

列車に向かったメイは乗降口のステップでこちらに向き直った。ホームの淵に立っている僕との30cmの距離が近くて遠い。何か言いたいのに出てこない言葉がもどかしく、切ない気持ちでメイの視線を捉えるとそこには同じ色があった。無意識に伸びた僕の手が君の冷たい頬に触れると、メイはその手を口元に運び唇を押し当てた。柔らかい感触と温かい息が胸の中にまで沁みてくる。

「(メイ)・・」しわがれた声は喉に貼り付いたまま、口だけがメイの形に動いた。

もう一度強く唇を押し当ててから僕の手を離したメイは、素直な笑顔を僕に向けてその手を強く振った。

「電話するから。 またね・・」僕はやっとそれだけ言うことができた。

「・・・」

メイの瞳が何か言いたそうに揺れた時、目の前でドアが閉まった。

 

悪戯を思い付いた子供の顔で、メイはドアに向かって息を吹きかけ始める。窓ガラスに特製の白いキャンバスが浮き上がった時、列車はガクンと揺れて動き出した。動きに負けない強さでキャンバス一杯に書いた「スキ」の文字の向こう側で、笑顔のメイがその手を小刻みに振っている。

鼻の先がジワッと湿っぽくなり胸のあたりが窮屈になる。冷え込んできた空気を胸いっぱいに吸って、こぼれ落ちそうな感情をやり過ごした。

駅のアナウンスも列車のエンジン音も僕の耳に入らない。音のない世界で滑るように離れて行く「スキ」の文字とメイの周りだけが明るい。

すぐに会える。近いうちに必ず ―― 何度言い聞かせても、駄々っ子のように胸の中で暴れる<会いたい>が抑えられない。

列車は僕の気持ちを振り切るように速度を上げた。

僕に絡んでいたメイの指が、容易に届かない遥かな場所へ運び去られて行く。

 

◇◆◇

 

列車が走り去った後の闇をいつまでも眺めていた。さっきまでメイが立っていたベンチの前や、ふたりで歩いたホームの情景を意味もなく見回す。ガランとした空洞が広がるばかりで動くものは何もなかった。メイはもう暖かい車室に入っただろうか。

コートの襟を立て、前屈みで歩いているのは寒さのせいばかりではなかった。寄り添い絡めた腕にも、温もりごと抱き締めた胸にも、何処にもメイがいない現実が、寂しさは寒さだと教える。見送ったばかりだというのに、会いたくて逸る気持ちを持て余していた。

覚えのないまま改札を出ていたらしい。視界の端でチラチラと揺れる白い斑点に意識が引き戻され、そこが駅前広場だと気付かされる。足を止め顔を上げると雪が舞っている。確かめるように見上げた空から、街灯に照らされ白く浮き上がるように雪が舞い降りていた。

僕は動くこともできず雪を撒き散らす暗い空をじっと見上げた。

駅前広場の舞台で、街灯をスポットライトにした雪が沈黙のレビューを演じている。風のそよぎを忠実になぞる雪の群舞は完璧にシンクロして、完全な世界がすぐ側に存在していることを垣間見せている。

圧倒されていた。寒さを忘れて呆然と眺め、白い雪と暗い空の織りなすモノクロームの世界に魅了されていた。

きれいだ。

その思いが意識の中に、何か、を呼び覚ます。

一人じゃない。

僕は、一人じゃないんだ。

胸の奥にメイとの約束が灯っていた。

雪がメイのメッセージを携えているのなら、もっとたくさん受け留めたい。僕のメッセージもメイに届けばいい。両腕を少し開いて胸を張り、思い切り上を向くと耳に舞い降りた雪が、パサッ、と囁いた。

冬の始まりを告げるように、雪は直に本降りになった。根雪になりそうだ、ふとそう思った。

 

メイの乗る列車も雪の中だね。列車の窓灯りに一瞬だけ照らされて流れ去る雪を、メイはどんな思いで眺めているのだろう。

 

 


あの頃、遠い昔のラブソング。
ものごとの始まりと終わり。
できることなら《始まり》から順にご覧頂けることを。