あの頃、ふたりで。

遠い昔のラブソング

汽笛

職場まで徒歩5分の下宿住まいをしている。近くに高等学校がある関係からか、この下宿の住人はほぼすべてが高校生のようだ。というより高校生のための下宿と言うべきなのかもしれない。そのためなのか部屋は6畳1間で家具無し、テレビ無し、トイレ無しだった。僕はその中に無理やり割り込ませてもらっていて、完全な門外漢であり浮いた存在でもあった。それでも人生初の下宿生活はそれなりに刺激的で結構楽しんでもいた。

管理人ご夫妻は初老(ごめんなさい)といった感じで、高校生たちは孫みたいな存在なのだろう。ご夫妻の話し相手は必然的に僕の役目になった。「洗濯物は出しておきなさい。やっといてあげるよ」と言われ、素直に甘えさせてもらっている。感謝です。

ちなみに下宿の親父さんは大の巨人ファン。北海道では毎試合テレビ中継があるわけではないので、もっぱら携帯ラジオの野球中継(もちろん巨人戦)をイヤフォンで聴いている。

 

◇◆◇

 

基本賄い付きではあるけれど、決められた時間を過ぎると片付けることになっている。つまり、食いっぱぐれる。空きっ腹を耐えられない者は時間厳守が鉄則だった。

朝食と夕食は食堂で頂く。皆、無言で黙々と箸を運ぶ。

夕食を済ませて自室へ戻ると、見事なほどに何もすることがない。高校生たちは勉強でもしているのだろうか、話し声が聞こえることもなく異様なほど静かだ。携帯ラジオでも手に入れようと考えたりもしたけれど、2度と味わえないだろうこのような境遇を体験するのも一興だと考え直した。

 

テレビもラジオも無いとなれば、寝るか読むか勉強するかの3択くらいしか思い浮かばない。何が嬉しくて北海道まで来て勉強せねばならないのだ。さらにはこんなに早い時間から寝てしまっては目玉も脳みそも腐ってしまう。ぼんやり過ごすには持て余すほどの時間と呆れるほど何もない空間に圧倒されそうだ。となればやはりこの環境を逆手にとって、青春ドラマの貧乏学生よろしく読書に徹してみるのが得策だろう。

 

6畳間の真ん中にゴロリと寝転んで星新一の文庫本を開く。ファンタジーあり、チクリと刺す毒気あり、夢や希望もあり怖い話もある近未来SFの短編集だった。

2、3話読み進んだあたりで、遠くで《ポッ》と短い音が鳴った。

北見駅から届いた汽笛が殺風景な部屋を通り抜けて行く。

「今日も始まったな」

SFの世界に浸りながら頭の隅っこでそう思う。

力強さと哀愁を滲ませる独特の音色は、遠く離れていてもその存在を明確に誇示する。

今夜も貨車の入れ替え作業が始まったようだ。あの貨物たちは何処へ向かうのだろう。この辺り特産のジャガイモやハッカを積んで、道内ばかりか仙台や東京にも運ばれて行くのやも知れぬ。

駅から時折届けられる汽笛の響きは、星新一のメルヘンチックな雰囲気に染まっている頭の中を句読点のように横切って行く。想像と現実の狭間が曖昧なまま、僕の中で星新一の世界が進行していた。

会社近くの下宿屋に住んで2週間が過ぎていた。

 

星新一は君から借りた。

お気に入りだと言っていたね。

僕が貸したのは三島由紀夫

東京を出発する時に、たまたま駅構内の書店で手にした本だった。

違う本にしておけば良かったな、僕は星新一の世界の中で呟いていた。

 

いつの間にか汽笛は聞こえなくなっていた。

北見の街は密やかに休息の時間(とき)を待っている。下宿は相変わらず静寂の中だ。

このショートストーリーが終わったら、本を閉じよう。

優しい温もりの中で、君の寝息は穏やかだろう。

 

君の住む寮もここから近いと聞いている。

あの汽笛は柔らかな君の耳にも届いただろうか。

 

 

 


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